Difference between revisions 44570255 and 44570373 on jawiki{{百科事典的でない|type=NOTSOAPBOX|date=2011年2月}} '''海洋国家としての日本'''(かいようこっかとしてのにほん)は、総論「[[海洋国家]]」を前提とした海洋国家としての[[日本]]についての各論である。 == 海洋国家としての日本の歴史 == ===古代航海術から蒸気船の登場以前=(歴史:その1)== ==== 日本の成立と海洋文化 ==== 古来、[[山幸彦]]と[[海幸彦]]の神話や[[浦島太郎]]などの海を通じた説話が多くあり、海や山を中心として文化が醸成されてきた。[[三内丸山遺跡]]などの最近の発掘結果から、縄文期から日本海及び東シナ海の沿岸航路による海洋民族の存在が推測されている<ref>[[茂在寅男]]の諸著作はこの時代の航海術を考察している。[[ウェイファインディング]]も参照。</ref>。 紀元前数百年頃から、沿岸航路から、弥生民族の日本列島への流入が始まる。彼らにより本格的な稲作農耕が始まり、弥生期の原始国家群が成立していく。これらの国家群が集約され規模が大きくなるにつれて、大陸の王朝との国家間の交流が始まる。[[卑弥呼]]が魏に使者を送り[[親魏倭王]]の[[称号]]を得、その後継者[[台与]]も親晋倭王の[[称号]]を受けた。[[倭の五王]]もまたそれぞれ中国大陸に使者を送った。 [[ヤマト王権|大和朝廷]]は[[白村江の戦い]]の後、[[唐]]や[[新羅]]からの侵攻に備え九州に[[水城]]を築城し、関東からの募兵を[[防人]]として九州に派遣した。朝廷は次第に中国文明からの自立を図り[[国号]]を日本とし、大王の[[称号]]を[[天皇]]と改める。[[遣唐使]]の派遣や新羅や[[渤海国]]との通交など、活発な国際交流を行った。朝鮮半島の[[新羅]]と外交上しばしば対立し、その後継王朝である[[高麗]]とも国王の病を治す名医の派遣を要請されるが、礼に適わないと一蹴し事実上の断絶関係となり、交易以外のつながりはなくなった。朝廷も朝臣の私貿易の禁止をしたこともあり、日本の国としての貿易はそれほど盛んではなくなった。 [[平安時代]]中期、[[刀伊の入寇]]や[[藤原純友]]による[[承平天慶の乱]]などが起り、海域をめぐる安寧はしばしば脅かされた。その後平安時代末期からは武士の台頭により、東の棟梁[[源氏]]と西の棟梁[[平氏]]がそれぞれ武勇をめぐって競った。とりわけ平氏は西海にあって[[水軍]]を中心に栄えた[[シーパワー]]勢力であり、海域の秩序の維持に努め、各国の在地勢力との間に封建的主従関係を築いた。畿内以西の平家の勢力圏にあってはそれぞれ在地勢力による水軍が発達していった<ref>海上知明「平知盛と「海軍」戦略---軍記物語にみいだされる戦略原則」(戦略研究学会、年報戦略研究5、2007年)。</ref>。平家の棟梁[[平清盛]]が[[神戸港|大輪田泊]](現在の神戸)を中心に[[日宋貿易]]を盛んに行った。しかし、陸地勢力を中心に発展した源氏が平家を滅ぼして樹立した[[鎌倉幕府]]は[[ランドパワー]]的であり、外国との通交には積極的ではなかった。再び日本は内向的な時代を迎える。 ==== モンゴル世界帝国の来寇 ==== [[元 (王朝)|元]]の[[大ハーン]]([[皇帝]])[[クビライ]]の通交の求めを受けた時の[[執権]][[北条時宗]]は侵略か服属を求めるの意思ありと見てこれを一蹴、これに怒った元が宋や高麗の軍勢をも率いて[[1274年]](文永11年)、九州に来襲、対馬、壱岐を制圧して九州に上陸してきたが辛くも元軍を退かせることが出来た。[[1281年]](弘安4年)、再び元軍が九州に来襲し、石垣を築いて防戦態勢を整えていた鎌倉幕府の御家人たちはこれを撃退、[[元寇]]という国難を乗り切ることができた。 {{See also|元寇}} 外敵の来襲を経た日本では、博多は国際港として発達、[[倭寇#前期倭寇|前期倭寇]]といわれる日本人中心の海賊による中国朝鮮半島沿岸への略奪行為も活発化していった。[[後醍醐天皇]]が倒幕の志を燃やし、再び朝廷中心の政治を取り戻そうとして挙兵したが、後醍醐天皇の[[建武の新政]]も、再び武士の失望を買った。源氏の名門[[足利氏]]の棟梁、[[足利尊氏]]が新たな天皇を立てて([[北朝 (日本)|北朝]])、尊氏自身は[[室町幕府]]を開いて南北朝時代に突入していった。南北両朝が合体を迎えるのは室町幕府三代将軍[[足利義満]]の時代であった。 足利義満は[[明]]に使者を送り、[[日明貿易]]をはじめる。しかし、当時は倭寇による中国朝鮮への略奪行為が激しく、明の初代皇帝 朱元璋が直に日本征伐をしてでも倭寇を取り締まる意向を示すなど、日本と中国・朝鮮の貿易には倭寇らの海賊と善良な使節・証人の差別化を図ることが不可欠であった。そこで日明、日朝間では倭寇ではないという証明として勘合符を用いた貿易(勘合貿易)が行われるようになった。乱世である日本では、明・朝鮮を略奪する倭寇を十分に取り締まることができず、1419年には朝鮮水軍が対馬を襲う[[応永の外寇]]という事態にも発展している。 [[応仁の乱]]を契機として幕府の勢威が衰えると、日明貿易や日朝貿易の主流は有力守護で[[足利氏]]一門でもある[[細川氏]]と、西国の名門、[[大内氏]]が競うように日明貿易に勤しんだ。[[1523年]](嘉靖2年)、細川氏と大内氏は貿易の主導権をめぐり対立を起こし、[[寧波の乱]]に発展。大内氏が細川氏に攻めかけ、多くの使節を殺害した。日明貿易は大内氏に独占されることとなった。しかし、[[陶晴賢]]が[[大内義隆]]に謀叛してこれを討つと、大内氏の被官であった[[毛利元就]]が陶を討ち、やがて大内氏をも滅ぼして大内氏旧領を支配下に納め、貿易は[[毛利氏]]によって独占されることとなる。 {{See also|日明貿易}} ==== 海を通ってきた南蛮人 ==== 一方、戦国時代には[[薩摩国]]の[[種子島]]に鉄砲が伝来し、[[フランシスコ・ザビエル]]ら[[イエズス会]][[宣教師]]が来日してにキリスト教を伝えた。間もなく鉄砲は国産化され普及し、キリスト教は庶民から[[大友義鎮|大友宗麟]]のような大名まで広く信徒を獲得した。 衰退の一途をたどる室町幕府では、管領細川氏の家臣である[[三好氏]]が中央政界を牛耳り、時の将軍[[足利義輝]]を暗殺し、義輝の従兄弟[[足利義栄]]を擁立した。[[今川義元]]を討ち、勢威を高めていた[[織田信長]]は京都の政争から逃れ大名の下を転々としていた[[足利義昭]]を新将軍として擁立して上洛、天下人への道をたどる。信長は、世界との交易に希望を馳せ、積極的に[[南蛮貿易]]や文化交流を行い、鉄砲の導入によって戦いを勝ち抜いていった。 日本に再び侵略の危機感を与えたのは、西欧諸国が[[フィリピン]]などを植民地化していったことであった。[[豊臣秀吉]]は限定的ながら[[バテレン追放令]]によってキリスト教を禁止した。豊臣秀吉の死後、天下をとった[[徳川家康]]にはじまる[[江戸幕府]]は当初[[朱印船貿易]]を盛んに行い、東南アジア各地に[[日本人街#日本人町|日本人町]]が形成されたが、[[徳川家光]]の代になると次第に厳格な[[海禁]]政策へと転換していった。国際港は[[長崎市|長崎]]に限定し、[[中国]](明及び[[清]])、[[オランダ]]、[[李氏朝鮮]]や日本周辺の諸民族のみが交易相手として公的に認められ、それ以外との交易は国禁とされた。 {{See also|鎖国}} 圧政の末に[[島原の乱]]が勃発し、一時は大蜂起となるも大軍を擁した老中[[松平信綱]]はじめ[[板倉勝重]]、[[戸田氏鉄]]らの譜代大名、及び九州諸大名らで構成された幕府軍によって鎮圧された。その後、各地には隠れキリシタンといわれた人々が密かに信仰を守り抜くも、戦国の日本に広く伝わったキリスト教の影響力は途絶え、武家政治による安定した時代を迎えることとなる。 ==== 幕末日本の「海防」==== {{See also|海防論}} 18世紀に入ると日本は、再び、危機意識を持ち始める。[[ロシア]]の東方進出にともない北方防備の重要性が認識され、[[林子平]]が『[[海国兵談]]』を著し、「海国の防備は海辺にあり」とその重要性を指摘したものの、[[老中]][[松平定信]]より処罰を受ける。 その後、ロシアの東漸、南下に危機感は高まったが、老中[[戸田氏教]]も杞憂としてとらえたという記録が残っているようにまだ深刻さの意識は低かった。[[1853年]]、アメリカから[[ミラード・フィルモア]][[大統領]]の[[親書]]を携えた[[マシュー・ペリー]]率いる[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]が[[浦賀]]に[[黒船来航|来航]]した折には[[下田奉行]][[戸田氏栄]]、[[井戸正道]]らが応対した。 幕府は[[老中]][[阿部正弘]]の建言で幕府海防掛を創設し、幕末の尊皇攘夷運動の旗頭であった[[水戸藩]]の藩主[[徳川斉昭]]を幕府[[海防参与]]として推戴した他、[[川路聖謨]]、[[水野忠徳]]([[勘定奉行]]兼任)、[[筒井政憲]]([[大目付]]兼任)、[[永井尚志]]([[目付]]兼任)、[[岩瀬忠震]](目付・勝手掛兼任)、[[大久保一翁]](目付兼任)、[[江川英龍]]、[[高島秋帆]]、[[勝海舟]]ら有為の幕臣をはじめ、水戸藩からは斉昭腹心の[[戸田忠太夫]]、[[藤田東湖]]を幕府の[[海岸防禦御用掛]]として任じ、戸田忠太夫の実弟水戸藩士[[安島帯刀]]を海防参与秘書掛に登用して幕政の海防施策の策定にあたる体制を築いた。 海防参与となった斉昭は中枢にあって、『海防愚存』を提出するなど海防の重要性を説くべく積極的に献策を行った。また、斉昭は水戸藩内でも海防を指揮し、藩内にも海防掛を置く他、家老の[[山野辺兵庫]]の所領にある陣屋を助川海防城として密かに築城して外敵の侵入に備えた(当時は[[一国一城令]]により公式に複数の城の所有は適わなかった)。 徳川斉昭はまず日本の海防を強化すべく、腹心安島帯刀に日本初の軍艦である旭日丸の建造を命じて幕府に献上し、水戸藩は幕府より賞されたが、幕府が朝廷の許可なく[[日米和親条約]]を締結すると、斉昭は海防参与を辞任した。この和親条約締結により、幕府の風向きは次第に軍事力を近代化しつつ欧米列強への歩み寄りを図り国家存立を図る政策が主流を占めるようになる。 =⏎ ⏎ ==蒸気船の登場と東亜海洋帝国の時代=(歴史:その2)== =⏎ ⏎ === 海軍創設 ==== {{See also|幕府海軍}} この頃における日本は幕府も雄藩も近代的な陸海軍の整備への関心が高まり、それぞれ軍事力の近代化に努めていた。とりわけ幕府は[[長崎海軍伝習所]]を設置し、開国して近代的な軍備輸入を志向した。これにはあくまで攘夷を唱える志士の幕府への憎悪が高まり、天誅と称して佐幕派の人物を襲撃するなど不穏な活動も活発になっていった。 そうした背景から尊皇を唱え、幕府をないがしろにするとともに、列強にはあくまで牙をもって臨もうとする強硬的な勢力は幕藩体制ひいては日本の分裂分子としてとらえられ、[[1859年]](安政6年)、[[安政の大獄]]という形をもって、厳しい弾圧を受けた。とりわけ、水戸藩は尊皇攘夷の困難さは承知していたものの幕府の朝廷軽視の扱いに不平を持ち、朝廷工作をしていたことが幕府の咎めを受けた。 翌年の[[1860年]](安政7年)[[3月3日]]、[[桜田門外の変]]などに水戸脱藩浪士が下手人となったことで水戸の政治的立場はいよいよ困窮した。[[1864年]](文久3年)[[5月2日]]、水戸藩尊皇派が[[徳川慶喜]]に主張を献策すべく[[筑波山]]にて挙兵した[[天狗党の乱]]が起った。天狗党は各地に転戦し[[中山道]]、[[北陸道]]に抜け最後は[[越前国]][[敦賀市|敦賀]]にて武士の礼を以って説得する加賀藩の前に降伏をし、挙兵した志士300余名は幕命により死罪となった。 尊皇攘夷をリードした水戸学の本家であった水戸藩は次第に佐幕派が台頭し、政治の主流から遠のいた。代わって台頭したのが外様の[[雄藩]]であった[[薩摩藩]]、[[長州藩]]である。薩長両藩は当初、日本周辺に近寄る欧州列強に戦争で挑み、それぞれ[[薩英戦争]]や[[下関戦争]]で西欧列強海軍と戦い敗北を喫した。後に明治維新の中心となる薩長両藩は欧州列強の実力を身を以って体験し、[[明治維新]]以降における日本の近代化にあって[[脱亜入欧]]政策をとるきっかけとなった。薩長両藩は次第に幕府との対立を深め、朝廷への接近によつて幕府への圧力を強めた。 長州藩<ref>熊谷直『毛利家のシーパワーに学ぶ』成山堂書店、2000年 ISBN 4-425-30191-9。熊谷直(くまがいただす)はペンネーム、本名の[[熊谷光久]](くまがいてるひさ)でも発表論文あり。海上自衛隊OBの軍事史家。</ref>が反幕府色を表に出し、朝廷を取り込まんとした[[禁門の変]](蛤御門の変)では、薩摩藩は[[親藩]]で[[京都守護職]]の任にあった[[会津藩]]と提携し、長州藩を朝敵として征伐しこれを退けた。[[第一次長州征伐]]、[[第二次長州征伐]]を経て長州藩は藩成立以来の存続の危機に立ったが、[[土佐藩]]脱藩浪士の[[坂本龍馬]]も早くから海洋の重要性を認識し、両藩を仲介した。 通商により近代化の道を模索していた坂本は、幕臣[[勝海舟]]との出会いにより幕府[[海軍伝習所]]に学び、浪人という身分で幕府と外様の間を自由に行き来し、身分や所属の隔たりを越えて、列強に勝てる軍隊がなければならないと[[海軍論]]を提唱した。やがて坂本は[[亀山社中]]を起こし[[海援隊]]へと再編する。戦国以来のしこりを残す薩長両藩の提携を実現することで日本の近代化への道筋を開いたといえよう。 幕府も従来から近代的な海軍装備の確立に努めてきたが、西欧列強の接近、尊皇志士の朝廷接近など複雑な政局の中でいよいよ本格的な陸軍・海軍の整備をなすべく、[[黒羽藩|黒羽藩主]][[大関増裕]]をこれにあたらせ、[[1861年]](万延2年)初代陸軍奉行に、[[1865年]](慶応元年)には初代[[海軍奉行]]に任じ、幕府の軍備にあたらせた。[[1866年]](慶応2年)[[12月28日]]には[[松平乗謨]]を[[陸軍総裁]]、[[稲葉正巳]]を[[海軍総裁]]として任じて陸軍奉行、海軍奉行の上位とし軍事の体制強化に努めた。 ==== 海洋通商国家への道~大日本帝国の確立 ==== 慶応2年[[薩長同盟]]が成立し、時局が薩長両藩に移りつつあった当時、坂本龍馬は[[公武合体]]の方策として諸侯と有為の人材からなる議会制度を提案し[[船中八策]]としてまとめた。これが[[後藤象二郎]]を経て[[土佐藩|土佐藩主]][[山内容堂]]を通じて[[徳川慶喜]]に献策されたことにより、徳川慶喜は[[大政奉還]]をし、朝廷の下による諸侯中心の政治体制を志向した。 薩長両藩の意向を受けた朝廷は徳川慶喜に対し、[[征夷大将軍]]及び[[内大臣]]の官職と、幕府直轄地の返上を命じた。尊王を家訓とする水戸徳川家出身の慶喜は、朝廷への叛意はなく水戸に引退したが、幕臣の中には朝廷の仕打ちを怨むものが多く、とりわけ裏で意図をひく薩長を討ち、政治の主導権を徳川将軍家の下に取り戻そうと考えるものが多かった。 [[鳥羽・伏見の戦い]]を皮切りに[[戊辰戦争]]の戦端が開かれた。敗退を重ねた旧幕府側は強力な海軍を擁するとともに[[フランス]]に依頼し新政府を海上から撃退する方策をとろうとするが、異国の協力を得ようとする幕府を嘲笑した諸藩の思惑が功を奏したか、幕府の海上からの反撃は行われず、とうとう新政府は関東に入った。 強固な海軍を擁していた幕府の責任者であった勝海舟は旧知の西郷隆盛と面会し、[[江戸城]]無血開城に成功。新政府軍は未だ抵抗する旧幕府勢力と新政府に抵抗する[[奥羽越列藩同盟]]を討伐すべく奥羽へと進軍、ついには元幕府軍海軍副総裁[[榎本武揚]](総裁)や[[松平太郎]](副総裁)、[[荒井郁之助]](海軍副総裁)らの率いる[[箱館政権]]を下し、とうとう明治新政府によって近代国家として統一政権を確立するに至った。 明治政府は[[天皇]]中心の近代国家を志向し、脱亜入欧政策をとることにより強固な陸海軍を整備し、軍隊を天皇の[[統帥権]]の下に置いた。また、統一政権としては未熟であった政府にとって有為の人材の登用は不可欠であり、諸藩の統制に経験のある有為の旧幕臣を積極的に登用することで、政府の官僚となる人材を整備し、海軍では[[幕府海軍]]を指揮した勝海舟、榎本武揚などが登用された。 明治政府は軍事力の整備にあっては陸軍海軍は薩長藩閥が中心となり、[[海軍大臣]]・[[海軍大将]][[樺山資紀]]により[[蛮勇演説]]がなされるなど明治政府の政軍における藩閥意識は強かった。また、島国であることを理由に海軍の増強ばかりが唱えられて陸軍が冷遇されているという疑念が陸軍側には存在し、後に朝鮮半島の支配を機に大陸国家への転換を唱える「大陸帝国」論が陸軍側から出されて、これに基づいた[[帝国国防方針]]が作成されるに至った。こうした影響は陸軍と海軍は相互に競い合う関係を生むひとつの原因にもなり、後に[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]]・[[第二次世界大戦]])における陸海軍の見解不一致にもつながる原因があったといえよう。 ==== 日露戦争により世界三大海軍国へ ==== {{See also|大日本帝国}} 明治における海軍戦略のあり方はどうとらえられていただろうか。旧幕府にて長崎海軍伝習、軍艦奉行並、軍艦奉行、海軍伝習掛、海軍奉行並、[[陸軍総裁]]、[[海軍総裁]]まで歴任した実績から政府要人に転じ[[卿|海軍卿]]の大任を果たした勝海舟は海軍の意義について、「海軍などのようなものを持てば世界中に展開せざるを得なくなり、国を滅ぼす基となる」と論じたが、それは海軍の優位を維持し、海洋の安全に国家の防衛を委ねる場合、強固な制海権を維持せねばならないという宿命がつきまとったことによるといえよう。 (contracted; show full) 中国に軍事力をおいていた日本の中国出征部隊である[[関東軍]]は[[1928年]]、友好関係にあった[[軍閥]]の[[張作霖]]が中国共産党に接近するとこれを爆殺し([[張作霖爆殺事件]])、その息子[[張学良]]と対立を深めた関東軍は[[清|清朝]]最後の皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を擁立して[[満州国]]を建国し、日本軍の傀儡政権とすることで日本の影響力を正当化しようとした。 日本は[[朝鮮]]、[[中国]]、[[台湾]]を含む広大な勢力圏を築きつつ、次第に中国在地勢力との対立を深め、これらの勢力と激しい戦線を展開していった([[日中戦争]])。日露戦争までの日本は島国としての地政学的な条件の下で、より大海軍国としての思考をした面が強かったが、大陸資源の獲得から大陸へと勢力圏を拡大することによって、その勢力圏の維持に向けた大陸軍国的思考を強めていったといえよう。 === = 大陸国家指向の結末 敗戦と帝国主義への反省 ==== {{main|南進論}} [[1939年]]、ドイツの[[ポーランド]]侵攻によって[[第二次世界大戦]]開戦の火蓋がきられた。戦端が各地に広がる中、日本の国内事情は[[シベリア出兵]]の戦費負担と[[関東大震災]]の勃発による世情不安から資源に困窮していった。中国との友好関係を望むアメリカから後方からの妨害を受け、石油などの禁輸措置を受けることとなる。当時の日本はドイツと対峙するソ連の隙をついた北進論と、南洋の油田地域に進出する南進論があったが、結果として南進論がとられ、中国南方、[[インドシナ]]、[[ビルマ]]はじめ南方への進出を開始した。 当時、中国大陸との友好関係を思考し、[[フィリピン]]を勢力下に入れていたアメリカは次第に日本への警戒心を強め、石油や鉄などの対日禁輸政策を強めることとなった。これは、逆に少資源国である日本の侵略を促進することとなり、日本国内ではかつての親密関係にあったアメリカやイギリスに対して「鬼畜米英」という感情が強まっていった。やがて日本は[[日独伊三国同盟]]を形成し、枢軸国としてアメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連を中心とした連合国と対峙した。 日本は自国の平和とエネルギー資源の確保のためにアジア太平洋地域に侵攻し、結果としてアメリカ、イギリスをはじめとした連合国と敵対、軍事的拡大に転じた結果、日本はアメリカに対して開戦、[[真珠湾攻撃]]に打って出る。戦況は当初、日本の有利のうちにはじまるが、[[ミッドウェー海戦]]以降は強大な軍事力と技術力を持つアメリカ軍の反撃により戦況が逆転、日本は敗北への道を進む。とりわけ[[マリアナ沖海戦|マリアナ]]、[[レイテ沖海戦|レイテ]]の二大海戦における[[連合艦隊]]の惨敗はまさに日本の敗色を決定的なものとし、やがて[[終戦の日|終戦]]を迎えた。 =⏎ ⏎ ==海洋交通路の国際共同管理の時代=(歴史:その3)== =⏎ ⏎ === 戦後日本の海洋国家指向 平和主義と世界第2位の経済大国==== 太平洋戦争を経て帝国主義を放棄し[[平和主義]]の国となっても、日本と海洋の関係は日本の平和と繁栄を維持する上で依然として重要な鍵であった。冷戦期における安全保障はもっぱら軍事的な分野が特化していたが、それでも1980年代から[[経済]]・[[食糧]]・[[エネルギー]]・[[環境]]など非軍事面での安定化も重視されるようになり、資源の少ない日本の平和と安定において海洋国家としての[[総合安全保障]]の重要性が認識されるようになってきた。[[京都大学]]の[[高坂正堯]]などが日本の海洋国家としてのあり方を著書でも論じ、また政府内の首相諮問機関でもその有様が検討され、戦後日本における平和国家としての具体的なビジョンとして「海洋国家 日本」というものが検討されてきた。 戦後そして今日においても日本にとって地政学的な条件に大きな変化はなく、日本の海洋国家としての検討そのものの重要性は変わらない。しかし、国際法における戦争の違法化や相互依存関係、不当な戦争への国際的な制裁がより機能することとなり、日本として制海権を保有する必要性はなくなってきており、むしろアジア諸国との平和的かつ戦略的なパートナーシップのあり方が課題とされてきた。 日本にとって重要な[[シーレーン]]は、東アジアの[[マラッカ海峡]]から[[インド洋]]、[[中東]]に伸びるルートと、[[ロンボク海峡]]からインド洋に抜け、中東に伸びるルートなどがある。平和主義の下に集団的自衛権を持たないとされてきた日本にとっては日米同盟が唯一のシーレーン防衛の鍵であって、自国の海洋権益の確保はアメリカとの同盟を前提としたものであった。戦後の[[日本の経済]]は高度経済成長を迎え、世界第2位の経済大国といわれるまでに成長し、[[G7]]の一国を占める国となる。 ==== 石油危機の体験 海洋国家志向と総合安全保障政策の確立 ==== 中東戦争などの地域情勢が不安となると、日本は石油資源国である中東諸国から敵国への支援国と見なされ、石油供給が止められるという事態も経験した(第一次、第二次[[オイルショック]]など)。日本が少資源国であるという事実を身を持って体験した政治的事件であった。 そうした意味において日本は中東との友好関係及び通商ルートの安全性が問い直され、[[1982年]]頃から日本の通商ルートである'''シーレーン1000海里防衛'''が課題とされるようになった。とりわけ内務官僚、警視庁警視、海軍主計将校を経て戦後は政治家となり[[防衛庁長官]]も経験した首相[[中曽根康弘]]も積極的にシーレーン防衛に寄与し、アメリカの[[ロナルド・レーガン]]大統領との友好関係構築に努め、日米同盟にあっては[[不沈空母]]発言に代表される親アメリカの外交関係を維持するとともに日本としてのシーレーンに対する自主防衛の姿勢を示した([[シーレーン]]参照)。中曽根内閣のとったシーレーン体制を俗に'''中曽根航路帯'''といった(contracted; show full)[[Category:国際関係]] [[Category:政治学]] [[Category:地政学]] [[Category:海洋国家|にほん]] [[Category:日本]] [[Category:日本の軍事]] [[Category:日本の軍事史]] [[Category:日本の貿易立国論者|*]] All content in the above text box is licensed under the Creative Commons 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