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{{政治家
|人名 = 安倍 晋三
|各国語表記 = あべ しんぞう
|画像 = Abe Shinzo 2012 02.jpg
|画像サイズ = 200px
|画像説明 = [[2012年]][[9月]]、[[長野県]][[長野市]]にて
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1954|9|21}}
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===衆議院議員===
[[1991年]](平成3年)に総裁候補の最有力と目されていた父・晋太郎が急死。1993年(平成5年)に父の地盤を受け継ぎ、[[第40回衆議院議員総選挙]]に[[山口県第1区 (中選挙区)|山口1区]]から出馬し初当選した(安倍後援会は[[新生党]][[古賀敬章]]や[[日本新党]][[江島潔]]含め三分裂、江島は[[1995年]][[下関市長]]となり手打ち)。当選後はかつて父・晋太郎が会長を務めた[[清和政策研究会]]に所属する(当時の会長は[[三塚博]])。1995年(平成7年)の[[自民党総裁選]]では[[荒井広幸]]や[[石原伸晃]]と共に[[小泉純一郎]]選対の中核になった。[[1997年]](平成9年)[[自民党青年局長]]に就任
し同い年の親友で初当選直後の[[下村博文]]を青年局長代理に指名。[[1998年]](平成10年)に政策集団[[NAISの会]]を結成。厚生族として社会保障などに通じた議員と見られていた。

[[ファイル:Robert Zoellick meets Shinzo Abe 2006-01-23.jpg|200px|thumb|アメリカ合衆国国務副長官[[ロバート・ゼーリック]]と握手を交わす(2006年[[1月]])]]
派閥領袖の[[森喜朗]]首相が組閣した2000年(平成12年)の[[第2次森内閣]]で、小泉純一郎の推薦を受け<ref name="naz2">{{cite web
|url = http://news.livedoor.com/article/detail/2473487/
|title = 「人間・安倍晋三の実像」(2)
|work = ライブドア・ニュース
|author = 満富俊吉郎
|coauthors = 徳永裕介
|date = 2006-09-19
|accessdate = 2007-09-26
}}</ref>、政務担当の内閣官房副長官に就任。[[第1次小泉内閣]]でも再任した。

[[2002年]](平成14年)、[[水野賢一]]が[[外務大臣政務官]]在任中に[[台湾]]訪問拒否され同辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]訪問に随行し、小泉首相と[[金正日]][[総書記]]との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と強硬論を繰り返し主張した。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣[[参与]]の[[中山恭子]]と共に北朝鮮に対する[[経済制裁]]を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した(この拉致問題への対応により、内閣官房長官だった[[福田康夫]]との関係に亀裂が入ったといわれる)<ref name="naz2"/>。対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得た<ref>[[西岡力]]「民意は安倍政権の拉致政策を支持」(『産経新聞』2006年8月3日付「正論」欄)</ref>。[[西村真悟]]や[[上田清司]]とも拉致問題・教科書問題・[[日本における外国人参政権]]問題を通して親しくなった。

2003年(平成15年)9月、小泉首相によって[[自由民主党幹事長|自民党幹事長]]に抜擢された。事前には筆頭副幹事長への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の[[大平正芳]]総裁時代の[[斎藤邦吉]]幹事長以来24年ぶりであった。[[国務大臣|大臣]]経験もない若手議員が第一与党幹事長に就任するのは極めて異例のことであるが、[[民由合併]]で[[政権交代]]の機運が高まり苦戦が予想される同年11月の[[第43回衆議院議員総選挙|総選挙]]のために安倍の「人気」が必要とされたためと見られた。総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党の単独過半数はならなかった。安倍の当選同期で同じ森派に所属する[[高市早苗]]や[[中村力]]、安倍を兄貴分と慕う新人候補[[高鳥修一]]や別派閥([[平成研]])ながら党内保守派で親しい[[平成研]][[新藤義孝]]や[[志帥会]]荒井新藤義孝]]は小選挙区で落選し、[[比例復活]]もできなかった。一方で[[保守新党]]党首(自民党推薦候補でもあった)[[熊谷弘]]に[[無所属]]新人として挑戦した[[城内実]]を水面下で支援し当選に導いた。

幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」([[派閥]]の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。[[2004年]](平成16年)4月[[埼玉8区]][[補欠選挙]]で自民党史上初の全国的な候補者公募実施し合格した新人[[柴山昌彦]]が当選(同公募には[[佐藤ゆかり]]も最終選考に残った)、同年夏の[[第20回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]では目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長・[[武部勤]]の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任(幹事長経験者の幹事長代理就任は異例)。直後に[[自由民主党中央政治大学院#地方政治学校|きょうと青年政治大学校]]や[[靖国神社崇敬奉賛会]]で講師を務めた。幹事長代理として迎えた2005年の(contracted; show full)|url = http://www1k.mesh.ne.jp/reikan/japanese/siryou/shitumon/060619.htm
|author = 全国霊感商法対策弁護士連絡会
|title = 公開質問状
|date = 2006-06-19
|accessdate = 2007年10月6日
}}{{リンク切れ|date=October 2012}}</ref>。 -->
;公明党・[[創価学会]]
:父、晋太郎と祖父の岸信介は創価学会・公明党と関係が深かったと言われ、晋太郎は1985年、[[大石寺]]の[[正本堂 (大石寺)|正本堂]]完成記念の祝典に岸信介の代理で出席して以来、[[池田大作]]と何度も面会したという
(池田の次男[[池田城久]]とは高校同級生だった)<ref>創価学会機関紙『[[聖教新聞]]』(2001年3月)</ref>。
:晋三は、創価学会から支援をもらっていたが、小選挙区制度が導入され、二大政党制に近づけば、創価学会は自分から離れてゆくとの判断から、1994年に創価学会と公明党に批判的な宗教団体や有識者で結成された「[[四月会]]」(代表幹事:[[俵孝太郎]])<ref>「四月会」は自民党が野党に転落した1994年に、自民党を支持する宗教団体(「[[立正佼成会]]」、「[[霊友会]]」、「[[仏所護念会]]」などを中心に結成され、創価学会と公明党の関係を「政教一致だ」と批判してきたが、一部の教団が公明党と連立を組んだ自民党との関係修復に乗り出したことで2001年3月に解散した。</ref>の集会などに参加したこともあった<ref name="sgkaibou">朝日新聞[[AERA|アエラ]]編集部 『創価学会解剖』(朝日新聞社 2000年1月1日) ISBN 978-4022612861</ref>。創価学会に関する自民党の勉強会『憲法20条を考える会』に(contracted; show full)[[tr:Shinzō Abe]]
[[uk:Абе Сіндзо]]
[[vi:Abe Shinzō]]
[[yo:Shinzō Abe]]
[[zh:安倍晋三]]
[[zh-classical:安倍晉三]]
[[zh-min-nan:Abe Sinzô]]
[[zh-yue:安倍晉三]]