Revision 42897114 of "日本の海洋国家論" on jawiki{{改名提案|海洋国家としての日本|date=2012年6月}}
{{百科事典的でない|type=NOTSOAPBOX|date=2011年2月}}
'''日本の海洋国家論'''(にほんのかいようこっかろん)は、項目「[[海洋国家]]」を前提とした海洋国家としての[[日本]]についての各論である。
== 概要 ==
日本の[[領海]]と[[排他的経済水域]]をあわせた管轄海域の面積は 447 万 km² であり、これは[[アメリカ合衆国|米国]] (762 万 km²)、[[オーストラリア]] (701 万 km²)、[[インドネシア]] (541 万 km²)、[[ニュージーランド]] (483 万 km²)、[[カナダ]] (470 万 km²)に次いで世界6位である<ref>[http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9410.html 世界の排他的経済水域]</ref>。
'''[[海洋国家]]である日本は'''
#海洋を通じて国交を結び貿易をし、渡来文化を吸収してきた。
#貿易や漁業を通じて食糧を得、豊かな経済を形成してきた。
#海が対外的な天然の防壁となり侵略から免れてきた。
#石油文明時代においては少資源国であるから、貿易なくしては自立できない。
'''海洋国家としての歴史を顧みると、日本は'''
#古来、自国を秋津島といった通り、早くから島国として自覚されてきた。{{main|日本の文化}}
#元寇などの対外的な侵略の危機から免れる一方で、海洋を通じた諸外国との関わりが自国の発展や繁栄において如何に重要であるのかを自覚していた。
#江戸時代に、諸外国の属国となることを恐れて[[海禁]]政策をとったが、海洋を通じた外界との交流を絶ったわけではなく、オランダや近隣諸国との貿易は断続的に続けられてきた。
#アジア諸国の中でも早くから、貿易を通じた西欧文化の吸収を進めてきた。日本は当時の西欧人を南蛮人の渡来などと称し、高く評価した。
#[[薩英戦争]]など雄藩と西欧列強との戦争を経て、海洋を通じた対外的交流の重要性を再認識した。
#明治新政府のもとで、諸外国の有する近代的な政治経済文化・法制度を輸入し自国のものとして定着させ、近代的で強力な陸海軍を形成していった。
#[[日露戦争]]の勝利をもって世界3大海軍国となった。
#[[第二次世界大戦]]敗戦後も、安全保障・経済・運輸・食糧・環境など各方面において海洋との関わりが切っても切れないものとなっている。
'''海洋国家としての現代日本では、'''
#[[造船]]業や[[海運]]業がきわめて盛んである。
#海運業は、航空機の発達により空輸という物流ルートが開発された後も、最も安心で安価な輸送手段として重視されてきた。
#経済活動の多くは外国からの原材料の輸入と、開発した工業製品の輸出であり、通商産業政策はほぼ海洋を通して担われている。
#[[エネルギー]]や[[食糧]]など[[資源]]の9割を対外依存しており、資源供給のほとんどを海上交易により賄われている状況にある。
#経済活動としても[[食糧]]問題としても海洋水産資源への依存度は高い状況にある。
'''技術発展により状況は変化し、日本に対して、'''
#海洋技術の発展は、普遍的と考えられてきた海洋国家としての得失にも大きな影響を及ぼした。
#近代的造船業の発達により安全に諸外国間の航行することが可能となり、島国であることの閉鎖環境を序々に解消している。
#古代以来、島嶼国であることを以って、諸外国からの侵略を免れてきた優位さを消失させた。航空機の発達、[[核兵器]]の登場により、海域は天然の防壁としての意義を著しく低下させた。
'''日本にとってつぎのことが課題である。'''
#内政外交、経済、社会の面において日本が如何に海洋を戦略的に活用するのか。
#海洋を通じた諸外国との友好関係形成やアジア太平洋地域の安定形成を如何に図るのか。
== 海洋国家としての日本の歴史 ==
=== 日本の成立と海洋文化 ===
古来、[[山幸彦]]と[[海幸彦]]の神話や[[浦島太郎]]などの海を通じた説話が多くあり、海や山を中心として文化が醸成されてきた。[[天照大神]]などに代表される日本神話の神々もまた[[海洋民族]]としての文化的発展とのつながりを指摘する声も少なくない。日本は海洋国家であることにより文化的には比較的孤立した地域にあったが、一方で独自の経済交流と文化醸成により日本文化を築いてきた。
[[三内丸山遺跡]]などの最近の発掘結果から、縄文期から日本海及び東シナ海の沿岸航路による海洋民族の存在が推測されている。発掘品からは、沿岸部の海洋民と内陸の狩猟民との間で交易があったことがうかがわれる。紀元前数百年頃から、沿岸航路から、弥生民族の日本列島への流入が始まる。彼らにより本格的な稲作農耕が始まり、弥生期の初期の原始国家群が成立していく。
時代が下がると、大陸の王朝との国家間の交流が始まる。そのうちの記録に残っているものとしては、[[卑弥呼]]が魏に使者を送り[[親魏倭王]]の[[称号]]を得、その後継者[[台与]]も親晋倭王の[[称号]]を受けた。[[倭の五王]]もまたそれぞれ中国大陸に使者を送った。これらの交流は、辺境の小国家が自らの権威づけとして行ったものである。
古代の[[ヤマト王権|大和朝廷]]は[[白村江の戦い]]の後、[[唐]]や[[新羅]]からの侵攻に備え九州に[[水城]]を築城し、関東からの募兵を[[防人]]として九州に派遣したりもしたが、結局日本への侵攻はなく、日本と海洋の関わりは再び外交と通商において大きな役割を果たした。朝廷は次第に中国文明からの自立を図り[[国号]]を日本とし、大王の[[称号]]を[[天皇]]と改めていくようになる。[[遣唐使]]の派遣や新羅や[[渤海国]]との通交をするなど、一時日本の朝廷は外交において活発に国際交流を行った。
しかし、日本と朝鮮半島の関係においては新羅と外交上しばしば対立し、その後継王朝である[[高麗]]との関係も国王の病を治す名医の派遣を要請されるが、礼に適わないと一蹴し事実上の断絶関係となり、交易以外のつながりはなくなった。
また、朝廷も朝臣の私貿易の禁止をしたこともあって、日本の国としての貿易はそれほど盛んではなくなった。その間に[[国風文化]]も発達し日本独自の文化が形成されたという時代もあり、日本の国際関係は積極的な時代にあっては異国文化を積極的に取り入れ自分のものとしていくが、そうでない時代にあってはより自国文化そのものが醸成されるなど、日本の社交性と内向性は日本文化の発展において、大いに影響を与えたといえよう。
[[平安時代]]中期にあっては[[刀伊の入寇]]という外敵の来襲や[[藤原純友]]による[[承平天慶の乱]]などが起り、平安中期における海域をめぐる安寧はしばしば脅かされた。その後平安時代末期からは武士の台頭により、東の棟梁[[源氏]]と西の棟梁[[平氏]]がそれぞれ武勇をめぐって競ってきたが、とりわけ平氏は西海にあって[[水軍]]を中心に栄え、海域の秩序の維持に努め、各国の在地勢力との間に封建的主従関係を築いていった。とりわけ畿内以西の平家の勢力圏にあってはそれぞれ在地勢力による水軍が発達していった<ref>海上知明「平知盛と「海軍」戦略---軍記物語にみいだされる戦略原則」(戦略研究学会、年報戦略研究5、2007年)。</ref>。
やがて、皇位争いと関白の座をめぐって[[皇室]]・[[摂関家]]の間で内紛が起ると、源氏も平氏もこれに介入し、次第に源平両勢力による抗争として発展していった。源氏との闘争に勝利した平家の棟梁[[平清盛]]が[[神戸港|大輪田泊]](現在の神戸)を中心に[[日宋貿易]]を盛んに行い、再び国際交流の道が開けてきた。しかし、陸地勢力を中心に発展した源氏が平家を滅ぼして樹立した政権である[[鎌倉幕府]]にあっては外国の通交は積極的ではなく、再び日本は内向的な時代を迎える。
=== モンゴル世界帝国の来寇 ===
そうした中、[[元 (王朝)|元]]の[[大ハーン]]([[皇帝]])[[クビライ]]の通交の求めを受けた時の[[執権]][[北条時宗]]は侵略か服属を求めるの意思ありと見てこれを一蹴、これに怒った元が宋や高麗の軍勢をも率いて[[1274年]](文永11年)、九州に来襲、対馬、壱岐を制圧して九州に上陸してきたが辛くも元軍を退かせることが出来た。[[1281年]](弘安4年)、再び元軍が九州に来襲し、石垣を築いて防戦態勢を整えていた鎌倉幕府の御家人たちはこれを撃退、これにより日本に2度も来襲した[[元寇]]という国難を乗り切ることができた。
元寇での勝利は日本の軍事的秀逸性というよりも、海戦に慣れていない内陸国の元を中心とした元軍が長い船旅の中で疫病なども蔓延し厭戦気分が高揚していたうえ、6ヶ月以上洋上に留まったことで[[台風]]を受け、自滅していったというのが真相であるともいわれる。しかしこの台風により元軍の敗因を築いたことが、[[神風]]として後世に伝わった。
{{See also|元寇}}
こうして外敵の来襲を経た日本はより内向的な政治体制をとるも、庶民のレベルでは活発に交易し博多は国際港として発達、その一方で[[倭寇#前期倭寇|前期倭寇]]といわれる日本人中心の海賊による中国朝鮮半島沿岸への略奪行為も活発化していった。その後、[[後醍醐天皇]]が倒幕の志を燃やし、再び朝廷中心の政治を取り戻そうとして挙兵、一度の挫折を経て、元寇の恩賞を出さなかった鎌倉幕府への不信感を募った御家人を糾合してこれを討つも、後醍醐天皇の[[建武の新政]]も公家優遇の政治であり、再び武士の失望を買った。
そこで源氏の名門[[足利氏]]の棟梁、[[足利尊氏]]が天皇に反旗を翻し新たな天皇を立てて([[北朝 (日本)|北朝]])、大和国の吉野に逃れた([[南朝 (日本)|南朝]])政権と対峙し、尊氏自身は[[室町幕府]]を開いて南北朝時代に突入していった。南北両朝が合体を迎えるのは室町幕府三代将軍[[足利義満]]の時代であった。国内の兵乱を終決させた足利義満は[[明]]に使者を送り、[[日明貿易]]をはじめる。しかし、当時は倭寇による中国朝鮮への略奪行為が激しく、明の初代皇帝 朱元璋が直に日本征伐をしてでも倭寇を取り締まる意向を示すなど、日本と中国・朝鮮の貿易には倭寇らの海賊と善良な使節・証人の差別化を図ることが不可欠であった。そこで日明、日朝間では倭寇ではないという証明として勘合符を用いた貿易が行われるようになった。これを勘合貿易という。しかし、一方では明、朝鮮から日本に対して自国を略奪する倭寇を取り締まるよう外交上の要請がなされたが、乱世である日本ではこれを十分に取り締まることはなく、1419年には朝鮮水軍が対馬を襲う[[応永の外寇]]という事態にも発展している。
とはいえ、室町時代における日明貿易、日朝貿易は室町幕府をはじめとして積極的に行われていた。しかし、応仁の乱を契機として幕府の勢威が衰えると、日明貿易や日朝貿易の主流は有力守護で[[足利氏]]一門でもある[[細川氏]]と、西国の名門、[[大内氏]]が競うように日明貿易に勤しんだ。[[1523年]](嘉靖2年)、細川氏と大内氏はついに貿易の主導権をめぐり対立を起こし、ついには[[寧波の乱]]に発展。大内氏が細川氏に攻めかけ、多くの使節を殺害した。これに関わった日本人は多くは処刑されたが、結果として日明貿易は大内氏に独占されることとなった。しかし、[[陶晴賢]]が[[大内義隆]]に謀叛してこれを討つと、大内氏の被官であった[[毛利元就]]が陶を討ち、やがて大内氏をも滅ぼして大内氏旧領を支配下に納め、貿易も[[毛利氏]]によって独占されることとなる。
{{See also|日明貿易}}
=== 海を通ってきた南蛮人 ===
一方、戦国時代には[[薩摩国]]の[[種子島]]に鉄砲が伝来し、[[フランシスコ・ザビエル]]ら[[イエズス会]][[宣教師]]が来日してにキリスト教を伝えた。これによって日本に伝来した鉄砲は種子島と呼ばれることとなり、宣教師たちの活動によって庶民から[[大友義鎮|大友宗麟]]のような大名まで広く信徒を獲得した。
その頃、室町幕府は衰退の一途をたどり、管領細川氏の家臣である[[三好氏]]が中央政界を牛耳っており、時の将軍[[足利義輝]]を暗殺し、義輝の従兄弟[[足利義栄]]を擁立した。[[今川義元]]を討ち、勢威を高めていた[[織田信長]]は京都の政争から逃れ大名の下を転々としていた[[足利義昭]]を新将軍として擁立して上洛、天下人への道をたどると、こうした世界との交易に希望を馳せ、積極的に[[南蛮貿易]]や文化交流を行い、鉄砲の導入によっていくつもの戦いを勝ち抜いていった。
日本に再び侵略の危機感を与えたのは、西欧諸国が[[フィリピン]]などを植民地化していったことであった。[[豊臣秀吉]]は限定的ながら[[バテレン追放令]]によってキリスト教を禁止した。豊臣秀吉の死後、天下をとった[[徳川家康]]にはじまる[[江戸幕府]]は当初[[朱印船貿易]]を盛んに行い、東南アジア各地に[[日本人街#日本人町|日本人町]]が形成されたが、[[徳川家光]]の代になると次第に厳格な[[海禁]]政策へと転換していった。国際港は[[長崎市|長崎]]に限定し、[[中国]](明及び[[清]])、[[オランダ]]、[[李氏朝鮮]]や日本周辺の諸民族のみが交易相手として公的に認められ、それ以外との交易は国禁とされた。
{{See also|鎖国}}
圧政の末に[[島原の乱]]が勃発し、一時は大蜂起となるも大軍を擁した老中[[松平信綱]]はじめ[[板倉勝重]]、[[戸田氏鉄]]らの譜代大名、及び九州諸大名らで構成された幕府軍によって鎮圧された。その後、九州各地には隠れキリシタンといわれた人々が密かに信仰を守り抜くも、戦国の日本に広く伝わったキリスト教の影響力は途絶え、武家政治による安定した時代を迎えることとなる。
=== 幕末日本の「海防」===
{{See also|海防論}}
やがて18世紀に入ると、海上防衛の面で日本は危機意識を持ち始める。[[ロシア]]の東方進出に北方防備の重要性が認識され、[[林子平]]が『[[海国兵談]]』を著し、「海国の防備は海辺にあり」とその重要性を指摘したものの、この頃は対外的脅威への意識が低く時の為政者、[[老中]][[松平定信]]より処罰を受ける。
その後、ロシアの東方進出、南下に危機感は高まったが、老中[[戸田氏教]]も杞憂としてとらえたという記録が残っているようにまだ対露外交の深刻さへの意識は低かった。その後、アメリカから[[ミラード・フィルモア]][[大統領]]の[[親書]]を携えた[[マシュー・ペリー]]率いる([[黒船]]とも呼ばれた)[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]が[[浦賀]]に[[黒船来航|来航]]した折には[[下田奉行]][[戸田氏栄]]、[[井戸正道]]らが応対した。この時は幕府が慰留した上でペリーが帰国したため特に大きな波乱はなかったが、翌年再び艦隊を率いて開国を求めてくると世情は再び大きな人心不安を齎された。
こうした折、幕府は[[老中]][[阿部正弘]]の建言で幕府海防掛を創設し、幕末の尊皇攘夷運動の旗頭であった[[水戸藩]]の藩主[[徳川斉昭]]を幕府[[海防参与]]として推戴した他、[[川路聖謨]]、[[水野忠徳]]([[勘定奉行]]兼任)、[[筒井政憲]]([[大目付]]兼任)、[[永井尚志]]([[目付]]兼任)、[[岩瀬忠震]](目付・勝手掛兼任)、[[大久保一翁]](目付兼任)、[[江川英龍]]、[[高島秋帆]]、[[勝海舟]]ら有為の幕臣をはじめ、水戸藩からは斉昭腹心の[[戸田忠太夫]]、[[藤田東湖]]を幕府の[[海岸防禦御用掛]]として任じ、戸田忠太夫の実弟水戸藩士[[安島帯刀]]を海防参与秘書掛に登用して幕政の海防施策の策定にあたる体制を築いた。
海防参与となった斉昭は中枢にあって、『海防愚存』を提出するなど海防の重要性を説くべく積極的に献策を行った。また、斉昭は水戸藩内でも海防を指揮し、藩内にも海防掛を置く他、家老の[[山野辺兵庫]]の所領にある陣屋を助川海防城として密かに築城して外敵の侵入に備えた(当時は[[一国一城令]]により公式に複数の城の所有は適わなかった)。
江戸幕府末期には水戸藩を中心とした勢力が尊皇攘夷を唱え、諸藩の志士に大きな共感と影響力を有するようになるなど、幕末期における日本の海防意識は一気に高まった。とりわけ、幕末の初期にあっては、水戸藩が雄藩の先頭にたって当初は尊皇攘夷のあり方として異国船打ち払いを中心とした海防戦略のあり方を論じたが、次第に攘夷困難を悟り海軍力の増強を図る一方で欧米列強との和親貿易の道を探った。
徳川斉昭はまず日本の海防を強化すべく、腹心安島帯刀に日本初の軍艦である旭日丸の建造を命じて幕府に献上し、水戸藩は幕府より賞されたが、幕府が朝廷の許可なく[[日米和親条約]]を締結すると、斉昭は海防参与を辞任した。この和親条約締結により、幕府の風向きは次第に軍事力を近代化しつつ欧米列強への歩み寄りを図り国家存立を図る政策が主流を占めるようになり、やがて[[井伊直弼]]を中心とした佐幕的な[[譜代大名]]を中心とした勢力が幕政を指揮するようになると、[[開国]]によって国難を乗り切り、日本の現実的な国力の基盤を整えようという政策が主流となってきた。
=== 海軍創設 ===
{{main|幕府海軍}}
この頃における日本は幕府も雄藩も近代的な陸海軍の整備への関心が高まり、それぞれ軍事力の近代化に努めていた。とりわけ幕府は[[長崎海軍伝習所]]を設置し、開国して近代的な軍備輸入を志向した。これにはあくまで攘夷を唱える志士の幕府への憎悪が高まり、天誅と称して佐幕派の人物を襲撃するなど不穏な活動も活発になっていった。
そうした背景から尊皇を唱え、幕府をないがしろにするとともに、列強にはあくまで牙をもって臨もうとする強硬的な勢力は幕藩体制ひいては日本の分裂分子としてとらえられ、[[1859年]](安政6年)、[[安政の大獄]]という形をもって、厳しい弾圧を受けた。とりわけ、水戸藩は尊皇攘夷の困難さは承知していたものの幕府の朝廷軽視の扱いに不平を持ち、朝廷工作をしていたことが幕府の咎めを受け、尊皇派の首領格であった水戸藩は家老の安島帯刀を切腹で失ったのを皮切りに藩内の尊王派と佐幕派の内紛により影響力を弱めていった。
翌年の[[1860年]](安政7年)[[3月3日]]、[[桜田門外の変]]などに水戸脱藩浪士が下手人となったことで水戸の政治的立場はいよいよ困窮した。[[1864年]](文久3年)[[5月2日]]、[[武田耕雲斎]]、[[藤田小四郎]]、[[田丸稲之衛門]]ら水戸藩尊皇派が[[徳川慶喜]]に主張を献策すべく[[筑波山]]にて挙兵した[[天狗党の乱]]が起ると、水戸藩は[[立原朴次郎]]らを派遣してなだめるも失敗、天狗党は各地に転戦し[[中山道]]、[[北陸道]]に抜け最後は[[越前国]][[敦賀市|敦賀]]にて武士の礼を以って説得する加賀藩の前に降伏をし、挙兵した志士300余名は幕命により死罪となった。
尊皇攘夷をリードした水戸学の本家であった水戸藩は次第に佐幕派が台頭し、尊皇派の家老[[戸田銀次郎]]も幽閉され病死、これよって水戸藩は事実上政治の主流から遠のく形となった。代わって台頭したのが外様の[[雄藩]]であった[[薩摩藩]]、[[長州藩]]である。薩長両藩は当初、日本周辺に近寄る欧州列強に戦争で挑み、それぞれ[[薩英戦争]]や[[下関戦争]]で西欧列強海軍と戦い敗北を喫した。後に明治維新の中心となる薩長両藩は欧州列強の実力を身を以って体験し、[[明治維新]]以降における日本の近代化にあって[[脱亜入欧]]政策をとるきっかけとなった。
とりわけ、オランダから[[咸臨丸]]を輸入し、幕府の衰退とともに欧州列強の日本進出の危機が高まる中、もはや幕府の時代ではないという意識が強まった薩長両藩は次第に幕府との対立を深め、朝廷への接近によつて幕府への圧力を強めた。しかし、薩摩藩と長州藩は未だ[[関ヶ原の戦い]]以来の遺恨を抱き、それぞれにおいて反幕府の傾向を次第に強めながらも相互に好敵手としてとらえ反目していた。
長州藩<ref>熊谷直『毛利家のシーパワーに学ぶ』成山堂書店、2000年 ISBN 4-425-30191-9。熊谷直(くまがいただす)はペンネーム、本名の熊谷光久(くまがいてるひさ)でも発表論文あり。海上自衛隊OBの軍事史家。</ref>が反幕府色を表に出し、朝廷を取り込まんとした[[禁門の変]](蛤御門の変)では、薩摩藩は[[親藩]]で[[京都守護職]]の任にあった[[会津藩]]と提携し、長州藩を朝敵として征伐しこれを退けた。[[第一次長州征伐]]、[[第二次長州征伐]]を経て長州藩は藩成立以来の存続の危機に立ったが、[[土佐藩]]脱藩浪士の[[坂本龍馬]]も早くから海洋の重要性を認識し、犬猿の仲であった薩摩長州の協調の道を唱え、両藩を仲介した。
坂本は通商により近代化の道を模索していたが、幕臣[[勝海舟]]との出会いにより幕府[[海軍伝習所]]に学び、浪人という身分で幕府と外様の間を自由に行き来し、身分や所属の隔たりを越えて、列強に勝てる軍隊がなければならないと[[海軍論]]を提唱した。やがて坂本は[[亀山社中]]を起こし[[海援隊]]へと再編、日本の近代化に向け国事に奔走していたが、戦国以来のしこりを残す薩長両藩の提携を実現することで近代化への道筋を開く端を開いたといえよう。
幕府も従来から近代的な海軍装備の確立に努めてきたが、西欧列強の接近、尊皇志士の朝廷接近など複雑な政局の中でいよいよ本格的な陸軍・海軍の整備をなすべく、[[黒羽藩|黒羽藩主]][[大関増裕]]をこれにあたらせ、[[1861年]](万延2年)初代陸軍奉行に、[[1865年]](慶応元年)には初代[[海軍奉行]]に任じ、幕府の軍備にあたらせた。[[1866年]](慶応2年)[[12月28日]]には[[松平乗謨]]を[[陸軍総裁]]、[[稲葉正巳]]を[[海軍総裁]]として任じて陸軍奉行、海軍奉行の上位とし軍事の体制強化に努めた。
=== 海洋通商国家への道~大日本帝国の確立 ===
一方、同じく慶応2年[[薩長同盟]]が成立し、時局が薩長両藩に移りつつあった当時、坂本龍馬は[[公武合体]]の方策として諸侯と有為の人材からなる議会制度を提案し[[船中八策]]としてまとめた。これが[[後藤象二郎]]を経て[[土佐藩|土佐藩主]][[山内容堂]]を通じて[[徳川慶喜]]に献策されたことにより、徳川慶喜は[[大政奉還]]をし、朝廷の下による諸侯中心の政治体制を志向した。
しかし、薩長両藩の意向を受けた朝廷は徳川慶喜に対し、[[征夷大将軍]]及び[[内大臣]]の官職と、幕府直轄地の返上を命じた。尊王を家訓とする水戸徳川家出身の慶喜は、朝廷への叛意はなく水戸に引退したが、幕臣の中には朝廷の仕打ちを怨むものが多く、とりわけ裏で意図をひく薩長を討ち、政治の主導権を徳川将軍家の下に取り戻そうと考えるものが多かった。
一方、依然として旗本八万騎という強大な軍事力を要したままの旧幕府への警戒感を抱く新政府は旧幕府に難問をいくつもつきつけ、直参旗本の憤激を高め新政府と旧幕府の対立は一気に高まり、[[鳥羽・伏見の戦い]]を皮切りに[[戊辰戦争]]の端を開いた。敗退を重ねた幕府は強力な海軍を擁するとともに[[フランス]]に依頼し新政府を海上から撃退する方策をとろうとするが、異国の協力を得ようとする幕府を嘲笑した諸藩の思惑が功を奏したか、幕府の海上からの反撃は行われず、とうとう新政府は関東に入った。
強固な海軍を擁していた幕府の責任者であった勝海舟は旧知の西郷隆盛と面会し、[[江戸城]]無血開城に成功。新政府軍は未だ抵抗する旧幕府勢力と新政府に抵抗する[[奥羽越列藩同盟]]を討伐すべく奥羽へと進軍、ついには元幕府軍海軍副総裁[[榎本武揚]](総裁)や[[松平太郎]](副総裁)、[[荒井郁之助]](海軍副総裁)らの率いる[[箱館政権]]を下し、とうとう明治新政府によって近代国家として統一政権を確立するに至った。
明治政府は[[天皇]]中心の近代国家を志向し、脱亜入欧政策をとることにより強固な陸海軍を整備し、軍隊を天皇の[[統帥権]]の下に置いた。また、統一政権としては未熟であった政府にとって有為の人材の登用は不可欠であり、諸藩の統制に経験のある有為の旧幕臣を積極的に登用することで、政府の官僚となる人材を整備し、海軍では[[幕府海軍]]を指揮した勝海舟、榎本武揚などが登用された。
明治政府は軍事力の整備にあっては陸軍海軍は薩長藩閥が中心となり、[[海軍大臣]]・[[海軍大将]][[樺山資紀]]により[[蛮勇演説]]がなされるなど明治政府の政軍における藩閥意識は強かった。また、島国であることを理由に海軍の増強ばかりが唱えられて陸軍が冷遇されているという疑念が陸軍側には存在し、後に朝鮮半島の支配を機に大陸国家への転換を唱える「大陸帝国」論が陸軍側から出されて、これに基づいた[[帝国国防方針]]が作成されるに至った。こうした影響は陸軍と海軍は相互に競い合う関係を生むひとつの原因にもなり、後に[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]]・[[第二次世界大戦]])における陸海軍の見解不一致にもつながる原因があったといえよう。
=== 日露戦争により世界三大海軍国へ ===
明治における海軍戦略のあり方はどうとらえられていただろうか。旧幕府にて長崎海軍伝習、軍艦奉行並、軍艦奉行、海軍伝習掛、海軍奉行並、[[陸軍総裁]]、[[海軍総裁]]まで歴任した実績から政府要人に転じ[[卿|海軍卿]]の大任を果たした勝海舟は海軍の意義について、「海軍などのようなものを持てば世界中に展開せざるを得なくなり、国を滅ぼす基となる」と論じたが、それは海軍の優位を維持し、海洋の安全に国家の防衛を委ねる場合、強固な制海権を維持せねばならないという宿命がつきまとったことによるといえよう。
「[[帝国主義]]と植民地政策を展開する欧州列強の中でどう生き抜いていくか」が大きな焦点であった日本は、朝鮮半島の安定化によりロシアの南下を防ぐ必要から朝鮮への介入を強め、[[1894年]]に[[日清戦争]]の端を開きこれに勝利、「帝国としての勢力拡大」という思考へと国策を転化させていった。[[下関条約]]によって朝鮮半島における日本の地位を確認し[[遼東半島]]を日本の領有とした。日清戦争における日本の勝利により、「眠れる獅子」として中国の広大な領地と潜在的軍事力への警戒意識を持っていた欧州列強は益々中国への介入を強め、[[租借地]]という名の植民地を拡大するようになる。
また、[[不凍港]]を欲し、朝鮮半島への野心を抱いていたロシアは[[ドイツ]]、[[フランス]]などとともに[[1895年]]に[[三国干渉]]をし、日本に遼東半島の清国への返却を要求した。その後、日本に代わって中国に進駐したロシアの様を見た日本の政府及び国民はこれに怒り、ロシアと戦うべしとの主張もなされた。[[1904年]]、ついに極東における利権と防衛上の問題から日露間双方に妥協の余地なしと決し、[[日露戦争]]の戦端が開かれることとなった。[[東郷平八郎]]率いる[[連合艦隊]]がロシアの[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]、[[バルチック艦隊]]を撃破、日露戦争に勝利した日本は[[大艦巨砲主義|軍事的な自信]]を強めていった。
[[1905年]]、日露戦争に勝利した日本の姿は欧米列強の植民地支配を受けていたアジア・アフリカの国々を勇気づけたといわれ、[[国際連盟]]にあって日本は人種平等を訴えるも受け容れられず、欧米への不信感とアジアの独立を志向するようになる。
日本は[[八紘一宇]]を唱え[[大東亜共栄圏]]の樹立を大義名分としてアジアに進出していった。[[世界大恐慌]]を経験して日本では[[政党]]の汚職による政治への不信感が高まり軍部が台頭、日露戦争後、大陸を志向した軍部は中国への進出傾向を強め、日本は中国大陸へと勢力圏を拡大していった。
[[1914年]]、[[セルビア人]]青年が[[オーストリア]]皇太子を暗殺した[[サラエヴォ事件]]に端を発し、フロンティアの戦い、ガリシア緒戦を皮切りに欧米列強を巻き込んで[[第一次世界大戦]]がはじまると、日英同盟を締結していた日本は中国のドイツ領に侵攻し、中国進出を図った。こうしてアジア大陸に大きな勢力の基礎を築いた日本は欧米から極東の大国として認識されるようになり、日本の中国進出をどうにか阻止することが欧米の課題となった。
その中で開催されたのが[[1921年]]の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]である。この会議にはアメリカをはじめ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大海軍国や中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルが参加した。軍縮の方向性としては、各国における海軍の主力艦の保有比率をアメリカ・イギリス5、日本3、フランス・イタリア1.67ときまった。これにより、一応日本の中国進出の歯止めにはなったが、これで日本の中国進出への野心をそいだわけではなかった。
中国に軍事力をおいていた日本の中国出征部隊である[[関東軍]]は[[1928年]]、友好関係にあった[[軍閥]]の[[張作霖]]が中国共産党に接近するとこれを爆殺し([[張作霖爆殺事件]])、その息子[[張学良]]と対立を深めた関東軍は[[清|清朝]]最後の皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を擁立して[[満州国]]を建国し、日本軍の傀儡政権とすることで日本の影響力を正当化しようとした。
日本は[[朝鮮]]、[[中国]]、[[台湾]]を含む広大な勢力圏を築きつつ、次第に中国在地勢力との対立を深め、これらの勢力と激しい戦線を展開していった([[日中戦争]])。日露戦争までの日本は島国としての地政学的な条件の下で、より大海軍国としての思考をした面が強かったが、大陸資源の獲得から大陸へと勢力圏を拡大することによって、その勢力圏の維持に向けた大陸軍国的思考を強めていったといえよう。
=== 大陸国家指向の結末 敗戦と帝国主義への反省 ===
{{main|南進論}}
[[1939年]]、ドイツの[[ポーランド]]侵攻によって[[第二次世界大戦]]開戦の火蓋がきられた。戦端が各地に広がる中、日本の国内事情は[[シベリア出兵]]の戦費負担と[[関東大震災]]の勃発による世情不安から資源に困窮していった。中国との友好関係を望むアメリカから後方からの妨害を受け、石油などの禁輸措置を受けることとなる。当時の日本はドイツと対峙するソ連の隙をついた北進論と、南洋の油田地域に進出する南進論があったが、結果として南進論がとられ、中国南方、[[インドシナ]]、[[ビルマ]]はじめ南方への進出を開始した。
当時、中国大陸との友好関係を思考し、[[フィリピン]]を勢力下に入れていたアメリカは次第に日本への警戒心を強め、石油や鉄などの対日禁輸政策を強めることとなった。これは、逆に少資源国である日本の侵略を促進することとなり、日本国内ではかつての親密関係にあったアメリカやイギリスに対して「鬼畜米英」という感情が強まっていった。やがて日本は[[日独伊三国同盟]]を形成し、枢軸国としてアメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連を中心とした連合国と対峙した。
日本は自国の平和とエネルギー資源の確保のためにアジア太平洋地域に侵攻し、結果としてアメリカ、イギリスをはじめとした連合国と敵対、軍事的拡大に転じた結果、日本はアメリカに対して開戦、[[真珠湾攻撃]]に打って出る。戦況は当初、日本の有利のうちにはじまるが、[[ミッドウェー海戦]]以降は強大な軍事力と技術力を持つアメリカ軍の反撃により戦況が逆転、日本は敗北への道を進む。とりわけ[[マリアナ沖海戦|マリアナ]]、[[レイテ沖海戦|レイテ]]の二大海戦における[[連合艦隊]]の惨敗はまさに日本の敗色を決定的なものとし、やがて[[終戦の日|終戦]]を迎えた。
=== 戦後日本の海洋国家指向 平和主義と世界第2位の経済大国===
太平洋戦争を経て帝国主義を放棄し[[平和主義]]の国となっても、日本と海洋の関係は日本の平和と繁栄を維持する上で依然として重要な鍵であった。冷戦期における安全保障はもっぱら軍事的な分野が特化していたが、それでも1980年代から[[経済]]・[[食糧]]・[[エネルギー]]・[[環境]]など非軍事面での安定化も重視されるようになり、資源の少ない日本の平和と安定において海洋国家としての[[総合安全保障]]の重要性が認識されるようになってきた。[[京都大学]]の[[高坂正堯]]などが日本の海洋国家としてのあり方を著書でも論じ、また政府内の首相諮問機関でもその有様が検討され、戦後日本における平和国家としての具体的なビジョンとして「海洋国家 日本」というものが検討されてきた。
戦後そして今日においても日本にとって地政学的な条件に大きな変化はなく、日本の海洋国家としての検討そのものの重要性は変わらない。しかし、国際法における戦争の違法化や相互依存関係、不当な戦争への国際的な制裁がより機能することとなり、日本として制海権を保有する必要性はなくなってきており、むしろアジア諸国との平和的かつ戦略的なパートナーシップのあり方が課題とされてきた。
日本にとって重要な[[シーレーン]]は、東アジアの[[マラッカ海峡]]から[[インド洋]]、[[中東]]に伸びるルートと、[[ロンボク海峡]]からインド洋に抜け、中東に伸びるルートなどがある。平和主義の下に集団的自衛権を持たないとされてきた日本にとっては日米同盟が唯一のシーレーン防衛の鍵であって、自国の海洋権益の確保はアメリカとの同盟を前提としたものであった。戦後の[[日本の経済]]は高度経済成長を迎え、世界第2位の経済大国といわれるまでに成長し、[[G7]]の一国を占める国となる。
=== 石油危機の体験 海洋国家志向と総合安全保障政策の確立 ===
中東戦争などの地域情勢が不安となると、日本は石油資源国である中東諸国から敵国への支援国と見なされ、石油供給が止められるという事態も経験した(第一次、第二次[[オイルショック]]など)。日本が少資源国であるという事実を身を持って体験した政治的事件であった。
そうした意味において日本は中東との友好関係及び通商ルートの安全性が問い直され、[[1982年]]頃から日本の通商ルートである'''シーレーン1000海里防衛'''が課題とされるようになった。とりわけ内務官僚、警視庁警視、海軍主計将校を経て戦後は政治家となり[[防衛庁長官]]も経験した首相[[中曽根康弘]]も積極的にシーレーン防衛に寄与し、アメリカの[[ロナルド・レーガン]]大統領との友好関係構築に努め、日米同盟にあっては[[不沈空母]]発言に代表される親アメリカの外交関係を維持するとともに日本としてのシーレーンに対する自主防衛の姿勢を示した([[シーレーン]]参照)。中曽根内閣のとったシーレーン体制を俗に'''中曽根航路帯'''といった。
しかし、戦前の海洋政策はすべて海軍省が所管していたが、戦後日本においては複数府省庁間に横断して所管されることとなった。外交上の課題は[[外務省]]経済局海洋室、通商産業政策にあっては[[通商産業省]](現[[経済産業省]])、海上防衛は[[防衛庁]]の下にある[[海上自衛隊]]、海運などは運輸省(現[[国土交通省]])海事局、海上の警察・消防は[[運輸省]](現国土交通省)の下にある[[海上保安庁]]、水産政策は[[農林水産省]]の下にある[[水産庁]]、科学技術政策では[[文部省]](現[[文部科学省]])、環境政策にあっては環境庁(現環境省)などとなっている。
また、こうした複数府省庁間にまたがる一連の海洋政策のあり方が日本政府としての海洋戦略の統一性を欠いているという批判もなくはない。国際法上において排他的経済水域における[[大陸棚]]資源が独占的に掘削できる制度が成立するも、日本としての大陸棚開拓を進めるにあたっては、一定の期限内に調査した上で国際機関に届け出る必要があり、政府内の協力体制や調整において十分な対策や措置がとられていないという指摘などはその最たるものである。また、こうした問題は今日においても課題である。
1990年代に入り、バブル崩壊により平成の大不況を迎えた日本は、経済の長期低迷を迎え、金融機関の破綻も増加した。日本の経済は未だ国内企業の占める割合が強く、政官業の癒着がしばしば問題となった。とりわけ金融機関への政官の保護に依存した金融機関の経営方式は[[護送船団]]方式などといわれ、しばしば批判の的となった。外国資本の日本市場への参入も次第に顕著となり、企業の法的規範意識や経営方式のあり方にも変化が現れ、当初外資参入にあった不安の声も、ある意味では日本式の経営方式の欠点を見直す機会にはなったという指摘もなされるようになる。
また、安全保障の面では90年代、ソ連の崩壊により冷戦が終焉を迎え国際社会の安定化が期待されたが、それまでの米ソ二極型対立構造の陰に隠れていた宗教や民族問題が次第に顕著となり、中東ではイラクのクウェート侵攻を契機とする[[湾岸戦争]]も勃発し、日本の国際秩序への姿勢も大きく問われることとなった。とりわけ、[[国際連合安全保障理事会]]の議決によりイラクへの制裁戦争が開始され、加盟国より制裁のための派兵が行われる中、日本は専守防衛の観点から、90億ドルの経済援助に徹し、派兵した国々から批判を浴びることとなった(自衛隊の非軍事行動をも認めないことなど)。
こうした国際社会での評価は日本国内でも大きな議論となり、平和主義と国際貢献の間で安全保障をめぐる国内の関心は次第に高まっていったといえよう。様々な議論のある中、国際化の進展により、経済文化面でも国際的な交流の機会は次第に拡大しつつある。このような中、日本においても[[国連平和維持活動]](PKO)への派遣など自衛隊の国際貢献の機会も広がり、アジア市場の中でどのようなパートナーシップを形成していくかが次世代に向けた課題として次第に認識されるようになるなど、今後の日本が国際社会の中で平和と安定を維持する上での国際的にどのようなスタンスで臨むかが今日的課題となっている。
== 海洋国家としての日本の現状と課題 ==
=== 総論 ===
[[1970年]]代から日本人の失踪が度々報道されるようになり、[[産経新聞]]など一部報道には[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]][[工作員]]による[[拉致]]が指摘されていた。北朝鮮の[[不審船]]が度々密入国を繰り返し海上保安庁[[巡視船]]の追尾を受けたことなどにより北朝鮮の犯行説が高まる中、2001年になって[[小泉純一郎|小泉首相]]の訪朝によって、[[金正日]]総書記が公式に不審船による工作員の密入国と日本人拉致を認めた。これによって、戦後の海上防衛または海上保安のあり方が問われることとなった。
また、中東情勢の混迷が深まり、日本のシーレーンはアメリカの軍事戦略でいうところの[[不安定の弧]]といわれる危険地帯とほぼ地域が一致しており、今日における日本のシーレーンは必ずしも磐石ではない。日本自国の海洋権益は維持しつつ、地域安定化に向けた多国間での海洋空間の平和的共有が戦後以来今日まで大きな課題となってきた。
今日における日本の海洋政策上の外交課題としては、[[中国]]との[[大陸棚]]をめぐる[[排他的経済水域]]の境界線の設定問題である。とりわけ、中台有事の危機を抱え、かつ中国の主張は沖縄本島間近までの水域を主張しており、中間線の設定を主張する日本と意見を異にする。今日、日中間で水域の境界線は協議の途上にあり今後の動向が注目される。
また、ロシアとの[[北方領土]]問題をはじめ、[[韓国]]との[[竹島 (島根県)|竹島]]問題の領有をめぐっては日本の領有権における重要な外交課題となっている。日本の領有権、施政権下にある[[尖閣諸島]]においては、近くに海洋資源のあると分かった1970年代から台湾、さらに中国が領有権を主張する様になり、こうした問題も長期化するにつれ、混迷しているのが実情である。
国内問題としては、日本の歴史認識やその問題に関連して[[靖国神社]]への首相・閣僚らの政治家による参拝問題をめぐる事柄が、中国や韓国の非難を浴びる要因となっており、アジアの市場が成長の途にある中で、日本が平和国家として歴史を如何にとらえ、新たなパートナーシップを形成するかが問われている。中国との関係は政冷経熱といわれ、政治的には冷えた外交関係にありながら、経済的なパートナーシップは強化されてきており、そうした政治と経済の間隔、日米中をとりまく均衡関係の中で中国との距離感、交渉や提携のあり方、紛争課題処理のあり方が問われている。
世界各地に基地と兵力を展開させてきたアメリカ軍は、冷戦の終焉にともない極東における反共防衛体制以来の駐留部隊を維持する必要性が低下したこと、さらに強力な[[空母]]を擁し[[RMA]](軍事革命)により無人戦闘機の開発も次第に進むなど、軍の行動速度が格段に飛躍したことなどにより、世界展開をする必要性そのものが低下したこともあって、基本的に韓国や日本の駐留部隊を削減し、本国に帰還させる戦略がとられるようになってきた。
一方で今後においてアメリカの戦略地域となる南アジア、中東、アフリカへの関与を強めようと兵力展開の重点地域を極東からより中東に近い地域へと転換させる[[米軍再編]]も進められている。アメリカとの同盟関係を基調としてきた日本は今後の安全保障のあり方をめぐって大きな岐路に立っている。従来よりアメリカは日本に東アジア地域への防衛協力への関与を強めて欲しいという希望を持っており、こうしたアメリカへの後方支援の強化と自国のシーレーン防衛を強化が期待されれば、結果としてアメリカの防衛負担を軽減し、南アジアの安全保障へとシフトしていくことができるという意図を有している。
とりわけ、1999年に成立した[[周辺事態安全確保法]]では周辺事態に対する日米協力関係を規定しているが、この「周辺事態」とは、日米同盟当初の戦略地域であった「極東」のように地域概念ではなく、日本の安全保障上影響をもたらす事態を指すものであり、[[グローバリゼーション]]の進展にともない、日米同盟は極東だけに限定されない概念へと移行しつつある。
今日、[[有事法制]]が整備されて、防衛の実行にともなう日米協力のあり方も具体化されつつある。とりわけ、海洋上の後方支援は協力関係の大きな要であり、[[集団的自衛権]]をめぐる是非論において、[[憲法改正]]の議論の高揚にともなう日本の平和主義の方向性そのものが問われている。とりわけ、近年、[[欧州連合]](EU)、[[アフリカ連合]] (AU) などをはじめとしてけして反米ではないが、非アメリカ色の同盟が世界的に形成され始め、アメリカの覇権体制とともにアメリカには属さない秩序が台頭している中で、日本がどのような秩序体系の中で安全保障を達成していくかが焦点となっている。
日本をとりまく外交関係を見れば、日米同盟のあり方が大きく変化する中、日本の自主防衛の体制とともに、極東及びアジア太平洋の均衡が如何に保たれるかということは、地政学的には大きな課題とされる。中国の台頭に危機感を持つ[[タイ王国|タイ]]が日本との防衛協力を要請している他、イギリスは日本の防衛面での国際貢献の強化を要請しており、また同じイギリス連邦内からは経済的にも親交の深い[[カナダ]]や[[オーストラリア]]などが日米加豪による太平洋同盟を提言している。南米からは太平洋の対岸にある[[チリ]]や日本同様に常任理事国入りを目指し緊密化をはかっている[[ブラジル]]から軍事的な協力関係を求める声もある(''[[日本の軍事#日本の軍事に対する諸外国からの要望と提言]] ''参照)。
アメリカの国連離れが指摘されるが、日本は憲法改正などをめぐる国内世論は様々な見解こそあるが、外交政策上は未だ国連中心主義を唱え、常任理事国として国際社会への貢献の幅を拡大することを目指している。アメリカとの親密な関係を維持しつつ、アメリカ以外のチャンネルを如何に広げていくかが問われており、アメリカとの距離感、そして汚職と大国の駆け引きの場と化した国連を如何に再生し、日本が如何なる貢献を果たすかが日本の外交政策における論点のひとつといえよう。
そうした中で、[[屋山太郎]]などは海洋国家連合を唱え、日米同盟を多国間化するとともに海洋国家としての戦略を確立することを唱えている。日本国際フォーラムでは[[伊藤憲一]]らが海洋国家セミナーグループを主催し、[[猪口邦子]]、[[川勝平太]]、[[佐瀬昌盛]]、[[小島朋之]]、[[岡崎久彦]]、[[秋山昌廣]]、[[江畑謙介]]ら各界の専門家が集って日本の海洋国家像が論じられるなど、日本の国家像を論じるうえでの海洋国家という視点は大きな座標軸としてとらえられてきつつある。
===ソフトパワーの側面から見た海洋国家戦略===
==== 国内における戦略 ====
海洋国家的視点から唱えられる主張のひとつに日本国民の海洋教育の重要性を説くものがある。平和主義の中で、現実の国際情勢と向き合ってきた日本は[[オイルショック]]を経験し、経済政策のみで国家の存立や国際協調は果たすことが困難であるという現実をも経験してきた。
戦後に出現した[[コンテナ]]輸送への世界経済の依存度が止まること無く高まっていく中、かつてはアジアのハブであった[[神戸港]]の凋落(それは[[阪神・淡路大震災]]によって完全にとどめを刺された)などハブとなるべき[[コンテナヤード]]が存在しないことなど、経済面でのシーパワーを失っている点も懸念される。また、韓国の猛烈な追随を受けているとは言え世界屈指の[[造船]]・操船技術を持つ日本だが、それを次代に伝え生かすこともおぼつかない状況である.
日本のアイデンティティともいうべき歴史や文化性、国民性、または戦争の経験とその反省を踏まえ、今日において海洋をめぐる日本と世界との関係において、どのように平和と国益のバランスを図るのか。とりわけ、国民生活に影響のあるガソリン或いは食品の輸入率の高さなどを踏まえ、日本と海洋のつながりの重要性をより積極的に教育の中に取り込んでいくべきという指摘もある。
そうした中、[[日本船舶振興会]](日本財団、[[笹川陽平]]会長)などが中心となって海洋文学への顕彰制度を発足させた他、映画やドラマ、漫画、小説などの文化的側面でも海上自衛隊と北朝鮮工作員のテロを描いた『[[亡国のイージス]]』や海上保安官の姿を描いた『[[海猿]]』といった作品が人気を集めるなど、近年の不審船事件を反映したような作品も目立つようになっている。とりわけ島国根性とも揶揄される日本の閉鎖的側面を刺激するためにも、こうしたソフトパワー的側面から海洋の重要性の認識を広げていくことの有用性を指摘する声もある。
==== 国外における戦略 ====
ハード的な側面としては東アジア諸国との間に海上の秩序を共有する目的から、近隣諸国との海軍や海上警察機関の連携や協力関係が強化されてきつつあるが、とりわけ日本のシーレーン上にあるマラッカ海峡には貧困から海賊となる人々が多いことから、こうした人々への経済的支援や教育の機会などを提供するといった紛争の予防に向けた取り組みの重要性も指摘される。また、アジア市場の発展性の中で立ち遅れた貧しい地域の安定化を図ることは市場としての基盤を確立する上でも有用であるとされ、こうしたソフト面からの秩序形成と地域としての経済的発展の道を説く声もある。
== 海洋国家としての日本の理論史 ==
国際政治学者[[高坂正堯]]が[[1965年]]に発表した『海洋国家日本の構想』において、[[島国]]の日本が海洋国家として戦略的・平和的発展を目指すべきとして論を展開し、反響を呼んだ<ref>『海洋国家日本の構想』(中央公論社, 1965年/増補版, 1969年/中公クラシックス, 2008年)</ref>。また[[川勝平太]]は『文明の海洋史観』等の著作において、日本のみならず西[[太平洋]]世界をも視野にいれた海洋国家論を展開した<ref>『文明の海洋史観』中央公論新社, 1997年。同『文明の海へ――グローバル日本外史』ダイヤモンド社, 1999年</ref>。
現在、日本では、[[海洋政策研究財団]]が発行している『海洋白書』(2003-)<ref>[http://www.sof.or.jp/jp/ 海洋政策研究財団]</ref>などにおいて「海洋国家」という概念が用いられており、[[総合安全保障]]、経済安定や[[エネルギー]]供給の安定、[[環境保護]]といった軍事・非軍事双方の視点からの国家の平和及び安定化に向けた[[国家戦略]]が追求されている。
== 海洋国家としての日本の自覚に関わった歴史的文献一覧 ==
*『海の日本人』民友社<社会叢書第1巻>、1895年5月。
*『海の大日本史』谷信次、大学館、1903年。
*『日本海運史資料』逓信省管船局、1904年8月。
*『海国史談』足立栗園、中外商業新報商況社、1905年9月。
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== 脚注 ==
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== 関連文献 ==
* 田中宏巳「東シナ海と対馬・沖縄」防衛大学校紀要 人文・社会科学編40、1980年
<small>東アジア世界の島嶼部を構成する日本の戦略環境を地勢学的に古代から現代まで概観</small>
* 北岡伸一「[http://www.nids.go.jp/exchange/forum/pdf/forum_j2003_04.pdf 海洋国家日本の戦略---福沢諭吉から吉田茂まで]」[http://www.nids.go.jp/exchange/forum/j2003.html 平成15年度戦争史研究国際フォーラム報告書]、2003年
<small>防衛省防衛研究所 戦争史研究国際フォーラム第2回「戦略思想の系譜---日米の比較」基調講演</small>
== 関連項目 ==
* [[地政学]]
* [[シーパワー]]
* [[海洋政策]]
* [[日本の貿易史]]
== 外部リンク ==
*[http://blog.canpan.info/oprf/ 海洋政策研究財団のブログ]
*[http://nippon.zaidan.info/index.html 日本財団 図書館]
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