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'''関西医科大学研修医過労死事件'''(かんさいいかだいがくけんしゅういかろうしじけん)とは、1998年に[[関西医科大学]]で研修医が過労死した事件。「研修医は労働者」との最高裁認定により研修医の労働環境改善のきっかけとなった<ref>「研修医は労働者」判決 両親「過酷労働、改善を」 連続38時間勤務も/大阪
2001.08.30 読売新聞 大阪朝刊 38頁 写有 (全1,016字)</ref> 。

==背景==
医学部の学生は大学で6年間の医学教育を受け、卒後に[[医師国家試験]]に合格して医師になる。しかしその状態では全く臨床経験が無いため大学病院などで[[研修医]]として現場の経験を積む。しかし、きちんとした研修医指導体制が確立されていなかったり、肉体的法的金銭的に過酷な勤務環境であるなど問題が多く<ref name="kobe20020228">「研修医/臨床教育の抜本改善を」 神戸新聞 2002年2月28日</ref>、新研修医のあいまいな身分から「安価な労働力」として酷使される状況を生んできた<ref name="2005okinawa6">「[労働者認定] 研修医の質の向上に」 沖縄タイムズ 社説 2005年6月6日</ref><ref name="yomiuri20010515">[大学病院を問う]研修医(1)「みんな過労死寸前」(連載)酷使される“安価な労働力” 死亡の26歳、週114時間働き月給6万 読売新聞 2001.05.15 東京朝刊 39頁 写有 (全1,632字)</ref>。文部科学省の調査によると、ある国立大病院の内科医局では、研修医の診療時間は週78時間だったのに対し、教授はわずか3時間、助手で19時間であり、大学病院が安価な研修医の労力に依存する姿が浮かんでくる<ref name="yomiuri20010515"/>。


また当時の研修医は最低賃金にも満たない「奨学金」を支給されるだけであり、生活のために他医療施設でのアルバイトをしなければ生活できず<ref name="yomiuri20010515"/>、それが更に休息時間を削ることになっていた。

健康保険も労働保険も無く、研修中に過労死や事故にあっても、何の保障がない状態であった<ref name="asahi20001102">私大病院の研修医、倒れても健保も労災もなし 収入もわずか 朝日新聞 2000年11月02日 東京夕刊 16頁 2社会 (全872字)</ref>。2000年4月の時点で、研修医に健康保険と労災保険に加入しているのは私立医大付属病院49病院中17病院だけであった<ref name="asahi20001102"/>。また、これ以前にも1968年までの[[インターン制度]]など若い医師の待遇をめぐる問題は紆余曲折があった。

==事件の概要==
===事件発生まで===
研修医は1998年3月、関西医科大学を卒業、同年4月16日に医師国家試験に合格した<ref name="osaka955">平成14年(ネ)第955号損害賠償請求控訴事件(原審 大阪地方裁判所平成11年(ワ)第4723号)</ref>。同年6月から関西医科大学付属滝井病院(当時1011床<ref name="yomiuri19990512">「研修医急死は過労」と提訴 両親が関西医大に賠償求める/大阪地裁 読売新聞 1999年5月12日 大阪朝刊 30頁</ref>)の耳鼻咽喉科で研修を開始した<ref name="osaka955"/>。研修は、午前7時半から午後10時過ぎの連日15時間以上に及び<ref name="yomiuri19990512"/>、指導医から指導を受ける他にも一医師として一人で患者への点滴や採血、診察と処置を行い、夜遅くまで医局の雑用やデーター整理も任されていた<ref name="yomiuri20010515"/>。。手術の助手まで行った時は翌日午前2時ごろまで病院にいた<ref name="yomiuri19990512"/>。時間外でも頻繁にポケットベルで呼ばれ土日も病院に出勤しており、勤務してから死亡するまでの2ヶ月半に出勤しなかったのは2日だけであった<ref name="yomiuri19990512"/>。通常勤務を終えた直後にそのまま宿直勤務に入り一睡も出来ないまま翌朝も通常勤務に就業するという連続38時間勤務にも月6回従事していた<ref name="asahi20001102"/><ref name="20020226kyoudou">研修医の「過労死」初認定/医大に1億3000万賠償命令/研修は法定労働時間の倍 共同通信 2002年2月26日</ref>。法定の週40時間の3倍近い114時間という週もあった<ref name="yomiuri20010515"/>。それに対して大学は「奨学金」名目の月6万円、当直1回あたり1万円を研修医に支払っていただけであり<ref name="saikousai1250">最高裁判所 平成14年(受)第1250号 平成17年6月3日 第二小法廷判決 棄却</ref>、給与として源泉徴収までしていた<ref name="200506yomiuri">「研修医は労働者」確定 関西医大病院訴訟 遺族に未払い賃金 最高裁判決2005年6月3日 読売新聞</ref><ref name="saikousai1250"/>。

関西医科大学での研修が始まって直ぐの1998年6月、研修医は父親に「しんどい」「食事も取れない」「胸が痛むが休みは取れず、大学病院に勤務しながら医師に診てもらう時間もない」と話した<ref name="yomiuri20010515"/>。死の1週間前にも研修医は父親に電話し、体調が悪く倒れるかもしれないと伝えていた<ref name="yomiuri20010515"/>。

===死亡===
研修医は1998年8月15日午後11頃に自宅としていたマンションに帰宅した。しかし翌日になっても病院に出勤してこず、病院から連絡を受けた父親(当時57歳)がマンションに駆けつけたところ既に死亡している研修医を発見した(当事28歳)。死亡推定時刻は翌日午前0時頃とされ、死亡届書及び死体検案書には急性心筋梗塞疑と記載された<ref name="osaka955"/>。遺族は、労働者災害補償保険法による保険給付として葬祭料50万540円、遺族補償一時金・遺族特別支給金合計951万8000円の合計1001万8540円を大学より支給された<ref name="kousai955">大阪高等裁判所判決文 平成14年(ネ)第955号損害賠償請求控訴事件</ref>。

==訴訟に至る経緯==
===父親の調査===
研修医の父親は[[社会保険労務士]]であった<ref name="yomiuri19990512"/>。研修医は大学時代で陸上部に所属し、大学間の大会(西日本医科体育大会)でも活躍していた<ref name="yomiuri19990512"/>。特に持病もなかったことから、父親は息子の死に不審を抱き、自ら同僚の研修医ら数人を訪ねて聞き取り調査を行った<ref name="yomiuri19990512"/>。その結果、関西医大で研修していた同級生40人の平均勤務時間が週約81時間と判明した<ref name="yomiuri20010515"/>。また息子の激しい勤務環境も明らかとなった。大学側が著しく過重な研修に従事させたことによる[[過労死]]であると確信した<ref name="yomiuri20010515"/>。

===労災認定申請===
父親は1998年10月、[[大阪北労働基準監督署]]に過労死の[[労災認定]]を申請した<ref name="yomiuri19990512"/>。病院側に勤務実態を問い合わせたところ、「勤務時間は研修医に自主管理させており、病院に責任はない。支払っているのは給与ではなく奨学金なので、雇用関係にも該当しない」と説明を拒絶され<ref name="yomiuri19990512"/>、労災認定の協力も得られなかった<ref name="asahi20001102"/>。北大阪労働基準監督署は父親の申請に対して、1999年10月に研修医を労働者と認め、(1)[[労使協定]]の届け出なく時間外労働をさせた(2)割増賃金や最低賃金を払っていない、などとして関西医大病院に研修医の労働環境の是正勧告を出した<ref name="asahi20001102"/><ref name="yomiuri20010515"/>。これに対して病院側は、「奨学金」を、大阪府の[[最低賃金]]に見合う12万2000円に改定した<ref name="asahi20001102"/>。また、2001年4月27日大阪北労働基準監督署は、関西医科大学と事件当時の学長、総務部長の2人を[[労働基準法違反]]の疑いで大阪地検に書類送検した<ref name="mainichi20010428">労基法違反容疑で関西医大を書類送検 研修医「過労死」 労務管理、不十分 毎日新聞 2001年04月28日 大阪夕刊 9頁 社会</ref><ref>関西医大病院・研修医過労死問題 前学長ら、労基法違反容疑で送検--北大阪労基署 毎日新聞 2001年4月29日 中部朝刊 29頁 社会 (全247字)</ref>。これに対して関西医大は、「研修医は労働者ではないと認識していおり労働基準法違反に問われるのか理解できない」とする主張を繰り返すに留まった<ref name="mainichi20010428"/><ref name="yomiuri20010515"/>。2002年、北大阪労働基準監督署は過労死として労災認定した<ref name="200506yomiuri"/>。

==1審==
遺族(研修医の父母)は、1991年5月11日[[大阪地方裁判所]]に[[逸失利益]]・慰謝料]]等1億7000万円の賠償を求めて提訴した<ref name="yomiuri19990512"/>。2002年2月26日大阪地方裁判所は大学に対して、約1億3500万円の支払い命令を出し研修医の死亡は過労死認定であると認定した。この判決を不服として大学側は大阪高裁に控訴した。

==2審==

===遺族の主張===
遺族の主張は以下のとおり。
# 研修医の業務は重要で責任が重く、従事時間が異常に長いことなどから「過酷な勤務」であった<ref name="yomiuri19990512"/>。
# 「過酷な勤務」と死因とは因果関係がある<ref name="yomiuri19990512"/>。
# 病院側は業務時間、内容を把握し、健康に配慮する義務を怠った<ref name="yomiuri19990512"/>。本人の健康管理による過失相殺(下記)は過去の判例からみても明確に否定される。

===関西医科大学の主張===
大学側の反論は以下のようなものであった。
# 研修医は労働者ではない<ref name="osaka955"/>。研修は教育であり、過酷な要素はない<ref name="osaka955"/>。午後7時以降の居残りは研修医の自主性に任せた任意であり、これらは研修の過酷性として勘案すべきではない。当時はまだ初期研修中であり、直接患者に接するのは朝夕の採血時程度であり、診療に責任も持たされておらず、中期以降の研修と比較しても質的量的にも到底過重は研修であったとは言えない<ref name="kousai955"/>。
# 研修時間内であっても体調が悪ければ休むのは自由であったし、他科の診察も自由に受けることが出来た<ref name="kousai955"/>。睡眠時間も十分に確保されており、死亡の直前にも疲労した様子も伺えず、知人と会食したり、上司宅を訪問するなどしている<ref name="kousai955"/>。研修開始後に体調が思わしくないと自覚していながら受診していないなど、本人の健康管理にも問題があり健康保持義務は過失相殺されるべきである<ref name="osaka955"/><ref name="kousai955"/>。
# 死亡の原因として検死で提示された心筋梗塞(疑)という診断に対しては、僅か2ヶ月半程度の研修によって急性心筋梗塞で死亡するはずもなく、ブルガダ症候群の発症(特発性心室細動)が原因である<ref name="kousai955"/>。研修とその突然死とには何ら関連性はない<ref name="osaka955"/>。またその死亡も予見できないものであり、安全配慮義務違反はない。

===判決===
2002年2月26日大阪地方裁判所は、約1億3500万円の支払いを同医大に命じた<ref name="asahi20020225">「研修医の過労死と認め関西医科大に賠償命令」朝日新聞 2002年2月25日</ref>。長時間労働による研修医の過労死が認められた初の判決となった<ref name="asahi20020225"/>。主な争点に対する裁判所の判断は以下の通りであった。

# 研修医は労働契約と同様の指揮命令関係下にあるとして研修医を動労者とみなす<ref name="20020226kyoudou"/>。
# 研修医は動労基準法の規定を大幅に超えた1ヶ月300時間を越える勤務をしており、大学側の健康管理に不備があったとした<ref name="20020226kyoudou"/>。
# 「研修医は医師なのだから、自分の体は自分で管理すべき」というのは、業務の過重さからして研修を休んで診察を受けることを期待することは大学が負う安全配慮義務に照らすと酷である。

==控訴審==
2002年大阪高等裁判所に同医大に対して逸失利益・慰謝料等として1億7200万円の損害賠償請求を行った<ref name="osaka955"/>。????

大学側は最高裁への上告をせず、2審の判決が確定した。

==その他の裁判==
上記とは別に、遺族は「最低賃金に満たない給料で働かされていたのは不当である」として、同医大に未払い賃金の支払いを求めた訴訟を2000年に大阪地裁に起こした<ref name="200506yomiuri"/>。大学はすでに審査中の逸失利益・慰謝料の裁判と同様に「研修医は労働者ではない」と主張し<ref name="saikousai1250"/>、研修医の勤務が労務の提供となるのかが焦点となった。1審と2審では原告の訴えを認め大学側に支払いを命じたが、大学は最高裁に上告した<ref name="200506yomiuri"/>。2005年6月3日、最高裁第2小法廷での上告審判決は、「研修医は病院のために患者への医療行為に従事することが避けられず、労働者に当たる」として、遺族共済年金や未払い賃金に相当する総額約916万円を支払うよう命じた大阪高裁判決<ref name="asahi20020225"/>を支持、同病院側の上告を裁判官全員一致で棄却し遺族側勝訴が確定した<ref name="200506yomiuri"/><ref name="saikousai1250"/>。

==時系列==
*1998年6月 過労死
*1991年5月 大阪地裁程度(1審査A)逸失利益・慰謝料等1億7000万円の賠償請求(大阪地方裁判所平成11年(ワ)第4723号)
*2000年 未払い賃金提訴(1審B)→支払い命令
*2002年2月26日大阪地方裁判所(1審A)は約1億3500万円の支払い命令・過労死認定→大学は高裁に控訴
午後7時以降の居残りは任意であり、この時間を含めて研修業務の過重性を判断したのは誤りである。

*2004年4月 新研修医制度開始

(2審B)大阪高等裁判所平成13(ネ)3214→支払い命令
2004年7月15日高裁判決(2審A)→約8400万支払い命令→上告せず確定
2005年6月3日 最高裁(3審B)上告棄却 (2審B)の高裁判決確定 遺族共済年金や未払い賃金に相当する916万支払い命令(差額40万円)


==報道==
*読売新聞は「研修医の過酷な勤務実態が医療ミスにつながっていると指摘されてきたが、判決は待遇の改善を促しそうだ。」と報じた<ref name="200506yomiuri"/>。
*神戸新聞は、信じられない勤務実態であり研修医がからむ医療事故が絶えないのも、本例のような勤務環境が背景となっているとし、大学病院の古い体質に加え、研修プログラムが確立されていないことが原因であると論じた<ref name="kobe20020228"/>。
*医療事故調査会・代表世話人の森功医師は「未熟な研修医を一人前として扱い、エラーは仕方がないというのが日本の実態。事故に対する大学側の意識の低さが背景にある。研修医の生活が保障され、指導も行き届いた欧米では、こんな危険な医療がまかり通ることなど考えられない」


 しかも、激務の研修医の給与は月数万円から二十万円程度と少ない。生活費稼ぎのため、民間病院で単独のアルバイト診療を行うケースも多い。

 

==その後==
研修医を労働者と認めた初の判断は、徒弟制的な研修医制度の改革を病院側に求めることになった<ref name="2005okinawa6"/>。厚生労働省は、2004年4月から医療の質の向上を目的に医師免許取得後の2年間の臨床研修制度を開始した。また医療事故の要因ともなっていたアルバイト診療も禁止する一方で、研修医に月30万円程度の給与を支給するよう求めた。しかしそれによって研修医の労働力に依存していた地方自治体の医療体制が大きなダメージを受け、大学[[医局]]の縮小や地方医療崩壊が発生するなど新たな問題が発生した。(詳しくは[[医師不足]]を参照)

==参考文献==
*塚田 真紀子 『研修医はなぜ死んだ?』単行本: 227ページ 日本評論社 ISBN 978-4535982048

==脚注==
<references/>

==関連項目==
*[[医師不足]]
*[[医療崩壊]]


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[[Category:医療問題○]]
[[Category:平成時代の事件○]]