Revision 43077693 of "カール・デーニッツ" on jawiki

{{大統領 | 人名=カール・デーニッツ
| 各国語表記=Karl Dönitz
| 画像=Karl Dönitz.jpg
| 代数=
| 職名=[[ドイツの大統領|大統領]]<ref>デーニッツがヒトラーから指名されたのはドイツ国大統領([[:en:Reichspräsident]])であり、[[総統]](指導者兼ドイツ国首相、[[:en:Führer|Der Führer und Reichskanzler]])ではない。</ref>
| 国名={{flagicon|DEU1935}} [[ナチス・ドイツ|ドイツ国]]([[フレンスブルク政府]])
| 副大統領職=なし
| 副大統領=
| 就任日=[[1945年]][[4月30日]]
| 退任日=[[1945年]][[5月23日]]
| 出生日={{生年月日と年齢|1891|9|16|no}}
| 生地={{DEU1871}}、[[ベルリン]]
| 生死=死去
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1891|9|16|1980|12|24}}
| 没地={{BRD}}、[[アウミューレ]]
| 配偶者=
| 政党=[[image:Reichsadler.svg|23px]] [[国家社会主義ドイツ労働者党]]<br/ >([[1944年]]-1945年)
}}
'''カール・デーニッツ'''({{lang|de|Karl Dönitz}}、[[1891年]][[9月16日]] - [[1980年]][[12月24日]])は、[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の[[軍人]]、[[ドイツの大統領|大統領]]。最終階級は[[ドイツ海軍]][[元帥 (ドイツ)|元帥]](大提督)。[[潜水艦]]作戦の第一人者で、無線誘導による[[群狼作戦]]をあみだした。[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]を最も苦しめたドイツの軍人の一人。

== 経歴 ==
===第一次世界大戦から戦間期まで===
[[ベルリン]]の[[:de:Berlin-Grünau|グリューナウ]]にて[[カール・ツァイス]]社の技師だった父エミル・デーニッツのもとに生まれる。[[1910年]]、[[フレンスブルク]]・ミュルヴィックの海軍兵学校 ([[:de:Marineschule Mürwik|de]])に入学。[[1912年]]には小型巡洋艦[[ブレスラウ_(軽巡洋艦)|ブレスラウ]]に士官候補生として配属される。[[1916年]]に潜水艦U39の先任将校として勤務。[[第一次世界大戦]]に潜水艦長として参戦。[[1918年]]、乗艦が潜行中に航行不能となり、急浮上をしたところを[[イギリス軍]]に捕らわれて[[捕虜]]となる。Uボートの艦長は絞首刑になるという噂を聞き、発狂したふりをして[[1919年]]、本国送還となる。

大戦終了後も[[ヴェルサイユ条約]]によって縮小されたドイツ海軍に残ることができた。しかし、条約で潜水艦の開発、配備が禁止されていたため、デーニッツも水上艦艇の勤務となった。その期間に[[日本]]を含む諸外国を遠洋航海で訪問しているが、アメリカに行けなかった事を後に後悔している。<ref>「ニュルンベルク・インタビュー上巻」(河出書房新社、2005年)著者レオン・ゴールデンソーン ISBN 4-309-22440-7</ref>水雷艇艇長、駆逐艦艦隊司令、北海方面海軍司令部参謀を歴任後、1934年に軽巡洋艦[[エムデン_(軽巡洋艦・3代)|エムデン]]の艦長に就任する。[[1935年]]にヒトラーのヴェルサイユ条約の軍備制限条項の破棄([[ドイツ再軍備宣言]])による潜水艦部隊再建のため、大佐だったデーニッツが[[潜水艦隊司令]] ([[:de:Befehlshaber der Unterseeboote|BdU]]) に抜擢された。

=== 第二次世界大戦 ===
[[画像:Bundesarchiv Bild 101II-MW-3491-06, St. Nazaire, Uboot U 94, Karl Dönitz.jpg|right|thumb|300px|Uボートとデーニッツ、1941年6月 (従軍当時の[[ロータル=ギュンター・ブーフハイム|ブーフハイム]]による撮影)]]
ドイツ海軍の潜水艦隊司令として[[Uボート]]作戦を指揮し、後に海軍全体の指揮をとる。デーニッツの巧みな作戦指揮や後のUボートの優先生産計画に支えられ、「'''灰色の狼'''」と呼ばれる潜水艦作戦はチャーチルから英国への最大の脅威として恐れられた。

開戦の日、デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。デーニッツは当初より300隻のUボートが最低でも必要(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)と表明していたが、通商破壊に必要な数はおろか訓練用にも事欠く状態で、開戦時に「なんたる! また英国と戦争をせねばならんとは!」と現状を嘆いた。

英国との開戦後も状況は変わらなかった。月産29隻の供給では損害の補填しかできず、その上、レーダー元帥の指揮下で水上艦艇の補助としてデーニッツは作戦を制約された。そのため、対英戦での通商破壊作戦に使用できるUボートの数はごく僅かに限られていた。しかも、開戦直後(1939年9月6日)よりUボートの磁気式信管の魚雷は早期爆発を頻発し<ref>1939年10月13日の英戦艦[[ロイヤル・オーク]]の襲撃でも7本の魚雷のうち2本しか正常に作動しなかった。</ref> 、ノルウェー攻略ではデーニッツは数週間前からUボートに通商破壊戦を中止させ、全兵力の42隻をノルウェー沿岸の英艦隊の予想進撃路に配置しなければならなかった。しかし、同地の強い磁気で魚雷は誤作動をくりかえし、ほとんど成果をあげなかった。

この魚雷の不調は深刻で、海軍はより威力の劣る接触式の信管による起爆に変更させた。しかし、今度は魚雷の深度調節機の欠陥が明らかになり、喫水が2m以下の船舶(殆どの駆逐艦)には使用不能で、Uボートは英駆逐艦への攻撃が不可能になった。この魚雷の欠陥と少なすぎる潜水艦の数から、緒戦の英軍の欧州からの水上艦艇の補助的な艦隊戦に関して、多くの戦果をみすみす逃す結果となった。魚雷の問題の技術的解決は1940年の夏までかかった。それでも、開戦初期は、新規建造トン数を上回る撃沈数を挙げた([[大西洋の戦い (第二次世界大戦)]])。これらの功績により、1939年から1940年の間に、少将から中将に昇進した<ref>ヒトラーは権限の伴わない将官を陸海軍で、この時期大量に任命している。これにより、旧プロイセン軍人のヒトラーへの嫌悪感が多少和らいだとされる。</ref> 。

ドイツは渋るヒトラーを海軍が説得した結果、1940年8月17日にイギリスの封鎖宣言に対してようやく対封鎖宣言を行った。<ref>[[アシカ作戦]]を前にしてレーダーはヒトラーとの1940年7月11日の会談で、「英国民に戦争を実感させる為に、先ず海上補給の締め上げ、次にイギリス主要都市の爆撃とで政治的に決着をつける」ことを進言している。もっともアシカ作戦自体は10月12日には作戦はヒトラーにより中止された。</ref>。これにより無警告で商船を撃沈することが違法ではなくなったために、デーニッツの作戦への制約は一つ少なくなった。

当初は潜水艦の数の不足と英軍の警戒の弱さから単独行動の商船が犠牲になった。しかし、英軍が護送船団方式をとると、敵の輸送船団を発見した1隻の潜水艦が近在の味方潜水艦を誘導して一時にこれを襲撃するという「[[群狼作戦]]」で、シーレーンを破壊し軍需民需の物資を海外からの輸入に依存するイギリスを苦しめた。

またUボートの建造もフランス占領後にはやや増加し、ビスケー湾から直接大西洋に出ることができた。しかし、ヒトラーからの要望でUボートの地中海派遣や北極海派遣が続き大西洋で作戦するUボートの数は限られた。1941年末のアメリカ参戦後、西海岸沿岸で活動できたのは6隻の大型の9型ボートだけであった。しかし、1940年以降はフランス占領の効果とUボート増産の効果がでて、1943年春に連合軍の護衛戦術が変更されるまで戦果は増え続けた。

[[1943年]]1月30日、[[エーリヒ・レーダー|レーダー]]元帥の後任として海軍総司令官に就任する。デーニッツはレーダーの辞任の理由となったヒトラーの大型艦の廃艦命令について、それを強硬に主張するヒトラーを1943年2月4日に「装備を含めて」Uボート関連の「ドック工員や水上艦艇」を陸軍に振り向けることを中止させ、翌日6日にクランケ中将が「成功を約束する機会」で「大型艦を戦場に派遣する」との暫定的なヒトラーの許可を得る。2月26日ヒトラーに大型艦の廃艦命令を一部撤回させ、後に大型艦は生き残った。

大西洋では、英軍がUボートの逆探知装置や群狼戦法の誘導電波などから位置の探査を行うシステムを開発した。Uボートは長距離[[対潜哨戒機|哨戒機]]や[[駆逐艦]]からの被害が増え、さらに米[[護衛空母]]が参加すると、Uボートは攻撃する前に空から制圧され戦果は激減する反面Uボートの損害は大幅に増加した。

損害の大きな理由のひとつで、チャーチルとデーニッツが大きく関与したものに、英軍の電子装置がある。この開発にチャーチルは英軍の全ての技術を米軍に公開することで、これら電子兵器は短期間に開発された。

これら米英共同開発の結果、護衛部隊は[[電子戦#分類|逆探知装置]]でUボートの逆探の微弱電波やセンチメートル波でのレーダーを連合軍が使用していることを、技術陣の報告のみを信じたデーニッツは、これらの敵側の兵器の存在を前線の報告から探すことを怠った。そのため、1942年から43年5月までUボートの被害を拡大させた。

ようやく、撃墜した爆撃機から英軍の正確な電子兵器のシステムが判明したことなどから、デーニッツも無線電波誘導による「狼群作戦」を終わらせた。

デーニッツも個人的に、1943年5月19日にUボート乗組員だった次男ペーターを失い、自らの作戦で自らの息子を失う悲劇にあう。さらに、[[ノルマンディー上陸作戦]]以降はフランスの基地も失い、Uボート戦は壊滅的な苦境に陥った。さらに、1944年5月13日には[[Sボート]]乗組員だった長男クラウスが戦死する個人的な悲劇が続いた。
[[画像:Bundesarchiv Bild 146-1976-127-06A, Karl Dönitz.jpg|right|thumb|カール・デーニッツ(1943年)]]

1944年7月20日の[[ヒトラー暗殺計画#1944年7月20日の暗殺未遂事件|ヒトラー暗殺未遂事件]]に、海軍創設時の協約である非政治的なドイツ海軍は全体的に無関係であった<ref>しかし、事件後「[[ナチス式敬礼|ナチ式敬礼]]」が海軍式(帝政ドイツ式)に代えて、採用された。また事件直後に関係者として[[アプヴェーア|国防軍情報部]]長官であった[[ヴィルヘルム・カナリス|カナリス]]海軍中将が逮捕され終戦間際の1945年4月に刑死している。</ref>。また、デーニッツ自身もヒトラーを除けば全て良くなるとは考えていなかった。なぜなら仮にヒトラーを除いても、戦争の根本原因の国と国の衝突する利害関係までがなくなるわけではない上に、もし連合軍へ無条件降伏すればイギリスの秘密命令「エクリプス」(ドイツ分割計画)が実行されるので、全力を傾け「ヨーロッパ要塞」を守り抜くことが賢明だと考えていた。

デーニッツは戦況について新型電動潜水艦の就役やヴァルター・ボートの開発に期待を持ち、それらが大量に戦線に登場すれば戦局は好転すると考えていた。デーニッツは1944年当時でもソ連と西欧諸国の同盟は不自然であり、英国の戦争理由はヒトラーの言うように「力の均衡のため」であると信じていた。「ソ連が中部ヨーロッパに進出すれば力の均衡はソ連側に大きくふれてしまうため、英国は平和交渉に応じる。そのためには、交渉のテーブルに着ける能力をもたねばならず、防戦を続けるべきである。」と主張していた。

もっともデーニッツもアルデンヌ敗北後は、仮に新型電動Uボートやヴァルター機関のボートが就役したとしても、ドイツの敗北は避けられないと感じていた。しかし、戦争継続の態度は変わらなかった。その理由は、1944年の厳冬期に無条件降伏すれば国際法によりドイツ兵は現地で拘束され、そのためにソ連領内の数百万の生命が東部戦線やその奥地で失われる。それを防ぐために、春までは戦闘を継続するべきだと考えた。そして、春以降ドイツ本国のいくつかの都市が敵の手に落ちた後も、もし無条件降伏を行えば東部残留のドイツ人がソ連軍占領下のドイツ人同様に残虐行為にさらされるとして、さらに継戦を正しいとした。

デーニッツは、ノルマンディーの敗北後から終戦までの戦争末期二つの軍事行動を行っている。一つは、時代遅れとなった旧型Uボートの出撃を命じつづけた。その結果、戦果がほとんど見込めないにもかかわらず旧型Uボートの乗員の損失は続いた。デーニッツは、新型Uボート就役まで出撃を控えさせる処置をあえてとらない理由を「大西洋の敵航空機が本土や戦線へ振り向けられることを防止するために」と、「わずかでも戦略物資をアメリカからヨーロッパの戦場へ入れない」ためと説明している。もう一つは、1945年の1月から終戦まで難民や兵士をソ連の残虐行為から救うために、ソ連陸軍の包囲が開いている海上から[[デンマーク]]や本国([[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン]])へ輸送を開始したことである。

=== 大統領としての指名から敗戦へ ===
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-V00538-3, Karl Dönitz, Adolf Hitler.jpg|right|thumb|250px|[[総統地下壕]]でヒトラーと会見するデーニッツ。1945年。]]

1945年4月23日[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]は連合軍に単独で講和を申出て反逆者として官職を剥奪され、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]も4月30日[[スウェーデン]]経由で講和を申出て反逆者となり表舞台から消えた。デーニッツは「ヒトラーの死で軍律<ref>ドイツ軍人は伝統的にその元首(この場合はヒトラー)に対して宣誓(神聖な契約、誓)により忠誠を尽くすことが強く義務付けられていた。これは英米のシビリアンコントロールとは違った騎士道精神的な伝統であり、大戦後のドイツ国防軍でも旧軍出身者にとり混乱の原因となった。The Blond Knight of Germany: A biography of Erich Hartmann /Raymond Toliver , Trevor Constable /1971 </ref>から開放されしだい」海軍は降伏させ、自らは司令部で地上軍として「玉砕」するとの決意を部下のへスラーや娘婿に打ち明けていた。

しかし、4月30日ナチス党官房長[[マルティン・ボルマン]]よりの第一号電文で「総統はゲーリングの代わりに貴殿(デーニッツ)を後継者に指名した。現状にて可能な処置をすべてとられるように」との暗号電文を海軍の通信施設より受け、ヒトラーが死んだか、死が間近と考えたデーニッツは、自らの手で戦争を終わらせる決意をした。同30日、ヒムラーが訪問して「自分を首相に任命してもらいたい」と申し出たが「非政治的な政府に不要」と断った<ref>この時、デーニッツはヒムラーが実力行使をすることを懸念して陸戦隊を臨時に編成している。またヒムラーを親衛隊を統率する国内最大の実力者と考えていたが、後にヒムラーらナチスのユダヤ人虐殺の事実を知った時に「その事実(ユダヤ人虐殺)を知っていればあの時(1945年4月30日リューベックでの会見時)ヒムラーを逮捕したものを」と、ニュルンベルク裁判の被告として拘留中に、ヒムラーを逮捕しなかったことを後悔していた。Die Woelfe und der Admiral /Wolfgang Frank /1953</ref>。

5月1日午前「遺書発効」とのボルマンからの第二号電文で、デーニッツはヒトラーの死を国民に公表した。そして、5月1日午後、ゲッベルスとボルマンが共同署名した第三号電文がデーニッツのもとに届き、そこには「昨日15時30分に総統戦死。4月29日付けの遺書には、貴殿(デーニッツ)を大統領に、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]博士を首相に、ボルマンをナチ党大臣に、ザイス=インクヴァルトを外相に」指名する([[ヒトラー内閣#参考:ヒトラーの遺書による内閣|ヒトラーの遺言による新政権任命]])とあった。デーニッツはゲッベルス、ボルマン等を含む人事が今後の降伏交渉の重荷になると考え、第一号電文で無制限の権限を得たとして、第三号電文の存在を握りつぶし、暗号電文に関係した通信士には口外を禁じた<ref>Die Woelfe und der Admiral /Wolfgang Frank /1953</ref>。1945年5月1日のラジオ放送においては、自らをその後継者とのみ語っている<ref>[http://nsl-archiv.com/Tontraeger/Reden/Bis-1945/1945-05-01%20-%20Deutscher%20Rundfunk%20(OKW)%20-%20Der%20Fuehrer%20ist%20gefallen%20-%20Regierungsuebernahme%20durch%20Karl%20Doenitz%20(3m%2047s).mp3] Karl Doenitz nsl-archiv 1945-05-01</ref>。なお、連合軍は降伏の実行が終わるまでその役割を曖昧にしたが、拘留者記録は「Regular Navy Officer」(海軍正規将校)とされている。
[[画像:DönitzDetentionReport.png|left|thumb|150px|]]
[[ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク]]を首相(leitenden Reichsminister・筆頭閣僚大臣)兼外相に任命し組閣を依頼した。なお、同日連合軍の地上部隊がせまって来たため、5月2日朝に総司令部を[[フレンスブルク]]に移した([[フレンスブルク政府]])。

デーニッツは苦慮の後、ドイツ全土が軍事占領されての「自然的終戦」ではなく「公式降伏」が必要と判断した。理由は、ソ連占領地区での投降した軍民への容認できない残虐行為が報告されており、そのため、西方での部分降伏を行い、東部では戦争を継続し難民輸送と兵員の撤退をさらに継続するのが主要な目的であった。また「降伏は軍隊がするので、国家がするわけではない。条約上の降伏は、弱体化しても国家主権を維持できる可能性がある」との前蔵相シュベーリン=クロージック新首相の上申を容れた結果でもあった。

5月5日英軍の[[バーナード・モントゴメリー|モントゴメリー]]との間で、北ドイツの部分降伏を発効させることに成功した。また、ボルマンとゲッベルスに対抗するため[[フレンスブルク政府]](終戦処理政府)を立ち上げ、連合軍に対して自らをドイツの正式代表として示した(但し連合軍はこの表示に曖昧な態度で臨んだ)。
5月6日ヨードルに全権を与えて米軍の[[アイゼンハワー]]の元に、西部戦線での無条件降伏を申し込んだ。ところが、アイゼンハワーは5月7日までにソ連軍を含めて無条件降伏を行わなければ、既に降伏している北部地区を爆撃すると通告した。これに対して、ヨードルはようやく発効を5月9日とすることに成功したのみであった。デーニッツは、この結果を踏まえ海上輸送に全艦艇を投入して続行することを命じた。このドイツ海軍最後の作戦は潜水艦はじめ全ての使用可能な艦艇で行われ公式には9日まで、実際には終戦後1週間程度は継続された。1945年1月から5月にデーニッツは200万人<ref>輸送人員について、Die Woelfe und der Admiral /Wolfgang Frank /1953では250万から300万人、Verdammte See/Cajus Bekker/1972 では200万人以上と記載されている</ref>の市民と兵を救出したが、その間、ソ連軍の攻撃で1万人以上の損害がバルト海などで発生した<ref>主な損害として、1945年1月30日にヴィルヘルム・グストロフ号で9000人以上、2月10日にシュトイベン号で9300人以上、4月16日にゴヤ号での7000人以上があげられる。犠牲者の大半が難民の女性と子供たち、少数の負傷兵であった。</ref>。

=== ニュルンベルク裁判と晩年 ===
5月23日デーニッツは逮捕された。[[ニュルンベルク裁判|ニュルンベルク国際軍事裁判]]では、連合軍検察の「侵略戦争の積極的遂行」などの罪で死刑が求刑されたのに対して、禁錮10年の判決が言い渡された。なお、同時に「罪となるべき事実」とされた「無制限潜水艦戦争」については、[[アメリカ海軍]][[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官の[[チェスター・ニミッツ]]が大統領命令で提出した、「同様の行為を米軍が太平洋で行った」ことの証言がなされたためか、無罪が言い渡されている。デーニッツは、弁護人[[オットー・クランツビューラー]]([[:de:Otto Kranzbühler]])に「海軍の名誉の為にこの勝利を得たからには、私自身の運命などどうでもよい」と裁判について述べている。[[1956年]]に釈放された。

釈放後<ref> [[アルベルト・シュペーア]]によると、デーニッツはヒトラーの後継者になったことを激しく後悔し、シュパンダウ刑務所の出獄にあたって(自分をヒトラーに推薦したと信じていた)シュペーアに「お前のせいで私は11年を無駄にした。お前がいなければヒトラーは私を国家元首にしようなどという考えを決して起こさなかった。私の部下たちはみな連邦海軍で指揮権を復活した。だが私を見ろ。まるで犯罪者だ。私の軍歴が滅茶苦茶だ。」と捨て台詞を残している。デーニッツの非難に対し、シュペーアは「あの戦争で数百万人の人間が殺された。さらに数百万人が強制収容所で殺された。ここにいる我らは皆政府の一部であった。しかし君がここで悩んでいるのは5000万人の死者のことではなく、君の10年間だ。君の刑務所での最期の言葉はこんなものなのか。『軍歴!』」と反論している。(グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者』 高木玲訳、原書房 p370)</ref>
、回想録『10年と20日間』を執筆した。晩年は信仰に拠り所を求め、[[ハンブルク]]近郊にある[[:de:Aumühle|アウミューレ]]の自宅で妻と暮らした。[[1980年]]数回の入院の後に病気のため自宅で死去。その死亡記事は全世界の新聞に配信された。[[西ドイツ]]政府が[[ドイツ連邦軍]]将兵に軍服で葬儀に参加せぬようにと訓示をしたにもかかわらず、2名の士官が軍服で参列した<ref>『ドイツ海軍魂―デーニッツ元帥自伝』訳者あとがき</ref>。

== 著作 ==
* 『ドイツ海軍魂―デーニッツ元帥自伝』 山中静三訳、原書房、1981年。ISBN 978-4562011919
* 『10年と20日間―デーニッツ回想録』 山中静三訳、光和堂、1986年。ISBN 978-4875380733

== 関連書籍 ==
* [[ヨルダン・ヴァウス]] 『Uボート・エース』 雨倉孝之訳、朝日ソノラマ、1997年。ISBN 978-4257173175
* [[グイド・クノップ]] 『ヒトラーの共犯者』 高木玲訳、原書房、2001年。ISBN 978-4562034178 

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 関連項目==
{{wikiquote|Karl Dönitz|カール・デーニッツ}}
{{Commons|Karl Dönitz|カール・デーニッツ}}
* [[フレンスブルク政府]] - デーニッツの「フレンスブルク政府」の構成。

{{start box}}
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  {{Succession box
    | title  = {{flagicon|DEU1935}} [[ドイツの大統領|ドイツの国家元首]]
    | years  = 1945
    | before = [[アドルフ・ヒトラー]]
    | after  = [[テオドール・ホイス]]([[ドイツ連邦共和国|西ドイツ]])<br />[[ヴィルヘルム・ピーク]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])
  }}
{{end box}}

{{ニュルンベルク裁判被告人}}

{{DEFAULTSORT:てえにつつ かある}}
[[Category:ドイツ帝国の軍人]]
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]
[[Category:Uボート艦長]]
[[Category:ドイツ第三帝国の元帥]]
[[Category:騎士鉄十字章受章者]]
[[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]]
[[Category:ドイツの大統領]]
[[Category:ニュルンベルク裁判]]
[[Category:1891年生]]
[[Category:1980年没]]

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