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{{Wikipedia|砂田重政}}
== 一、弁護士開業の頃 ==

過去を語るのは老人の仕事だというのが僕の人生観である。

したがって僕は思い出話などをあまり好まない。いま求めに応じて昔話をつづることは、決して僕が老人の部類に入ったことを認める意味ではない。温故知新のことわざのように、七十年にわたる生涯-そのうち政治生活は四十数年に及ぶ-のうちから、現在ならびに将来の人にとって何か参考にでもなることをくんでいただければ幸いである。

僕は郷里が愛媛県の今治市で、貧乏士族の家に生まれた。子供のころはほんとうに食うや食わずの生活で芋ばかりの日もあった。そういう環境で育った。おやじは軍人で西南戦争で負傷して退役になっていた。そんな家庭にありがちな子だくさんで兄弟が六人もあり僕が長男だ。つとに青雲の志をたてたが上京の旅費がないので、仕方なく月給二円七十銭という役所の給仕になってその金を貯めて十八歳の時東京へ出た。それから苦学して中大法科の専門部を卒業、弁護士、判検事試験に及第して二十一歳で司法官になった。司法官試補になると同時に日露戦争で補充兵として召集され撫順戦に参加した。

(contracted; show full)こんど廊下であろうと議場の中であろうと、出会い次第、なぐりつけてやる。当選九回の者が三人も寄って会いたいというのに、党人として、党の総裁として会わぬというやつは足腰立たないようにしてやる」といっておいた。そうしたらあくる日会うといってきた。三木のやつが悪いやつで僕を吉田の隣に座らせ、砂田君いってくれというわけだ。そこで僕は「河野と石橋は悪いことがあったでしょうが、この際、すべて水に流してきれいに復党を許してもらいたい」といった。すると吉田は「承知しました」と、あっけなくいうので、それですんだ。僕はそれで片がついたと思った。二人の除名を取消したら大半の目的を達したと思っていたが、それだけでは終らなかったのだ。林と益谷をやめさせて僕に総務会長になれという人があった。自分の弟のような人たちを辞めさせて、その後ガマに座り込むことなんて、おれにはそういうことはできないといって断ったのである。そういうことであの二人を辞めさせることには熱心でなかった。ところが三木は何かにとりつかれたように熱心だった。

== 出典 ==
[[w:日本経済新聞|日本経済新聞]]昭和31年(1956年)5月30日 - 6月3日、6月5日




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[[Category:私の履歴書]]
[[Category:1956年]]