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{{Wikipedia|吉井勇}}
===一、恵まれた詩歌への道===
 父の名は幸蔵、昭和二年十月七日に、年七十三歳で世を去った。少年時代に欧米に留学、あちらで成人したので、英、仏、独、いずれの外国語も達者であった。帰朝後、海軍兵学校に入り、海軍少佐の時、台湾征討軍に遣問使として行ったが、濁水溪というところで、地雷火のために頭部をやられ、それ以来軍職をやめて、やや癒えてから貴族院に入った。私がまだ子供の時分、父は酔うとよく「思ひきや彌彦の山を右手(めて)に見て立ちかへる日のありぬべしとは」という祖父の歌を、くりかえしうたって聞かせてくれたが、こういうことも私の一生に、それとなく影響しているのではないだろうか。
 
(contracted; show full) 私が最初に歌を作ったのは、まだ高輪の家に住んでいた明治三十年代のことであって、まずはじめて自分の詠草(えいそう)を見てもらったのは、竹柏園の石榑千亦氏だった。石榑氏は当時水難救済会という会の幹事をしていたが、私の父がその会長をしていたので、その関係でそういうことになったのだと思うが、その時分、私はどんな歌を作ったのか、もちろん詠草など残っていないし、全然私の記憶にない。私の記憶に残っている最初の歌は、それから二、三年の後、府立一中時代に作ったもので、「出雲なる簸(ひ)の川上はそのむかし八頭(やまた)の大蛇(おろち)住みけるところ」というのであるが、それはその当時出ていた「海国少年」という雑誌に投稿して天位になったもので、選者は後に川柳に転じたが、そのころは根岸派に属して万葉調の歌を作っていた坂井久良岐氏であった。

===三、光太郎や白秋らと知り合う===
===四、懐しい「五足の靴」===
===五、第一歌集「酒ほがひ」出版===

===六、自由劇場第一回公演の感動===



===七、雑誌「人間」発刊のころ===
===八、草廬の炉端の人生修業===
===九、歌行脚―新生の京都へ===

===十、「生死関頭」の重患===
===十一、疎開―雪の中の“暗い日々”===
===十二、人生行路にようやく光明===
===十三、苦心した都踊の歌詞===

===十四、もうしばらく世のなりゆきを===

== 関連項目 ==
* [[ゴンドラの唄]]

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[[Category:私の履歴書]]
[[Category:吉井勇|わたしのりれきしよ よしいしさむ]]
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