Difference between revisions 43069128 and 43081446 on jawiki

{{百科事典的でない|type=NOTSOAPBOX|date=2011年2月}}
'''海洋国家としての日本'''(かいようこっかとしてのにほん)は、総論「[[海洋国家]]」を前提とした海洋国家としての[[日本]]についての各論である。

== 海洋国家としての日本の歴史 ==

=== 日本の成立と海洋文化 ===
古来、[[山幸彦]]と[[海幸彦]]の神話や[[浦島太郎]]などの海を通じた説話が多くあり、海や山を中心として文化が醸成されてきた。[[天照大神]]などに代表される日本神話の神々もまた[[海洋民族]]としての文化的発展とのつながりを指摘する声も少なくない。日本は海洋国家であることにより文化的には比較的孤立した地域にあったが、一方で独自の経済交流と文化醸成により日本文化を築いてきた。

(contracted; show full)

やがて、皇位争いと関白の座をめぐって[[皇室]]・[[摂関家]]の間で内紛が起ると、源氏も平氏もこれに介入し、次第に源平両勢力による抗争として発展していった。源氏との闘争に勝利した平家の棟梁[[平清盛]]が[[神戸港|大輪田泊]](現在の神戸)を中心に[[日宋貿易]]を盛んに行い、再び国際交流の道が開けてきた。しかし、陸地勢力を中心に発展した源氏が平家を滅ぼして樹立した政権である[[鎌倉幕府]]にあっては外国の通交は積極的ではなく、再び日本は内向的な時代を迎える。

=== モンゴル世界帝国の来寇 ===

そうした中、[[元 (王朝)|元]]の[[大ハーン]]([[皇帝]])[[クビライ]]の通交の求めを受けた時の[[執権]][[北条時宗]]は侵略か服属を求めるの意思ありと見てこれを一蹴、これに怒った元が宋や高麗の軍勢をも率いて[[1274年]](文永11年)、九州に来襲、対馬、壱岐を制圧して九州に上陸してきたが辛くも元軍を退かせることが出来た。[[1281年]](弘安4年)、再び元軍が九州に来襲し、石垣を築いて防戦態勢を整えていた鎌倉幕府の御家人たちはこれを撃退、これにより日本に2度も来襲した[[元寇]]という国難を乗り切ることができた。

元寇での勝利は日本の軍事的秀逸性というよりも、海戦に慣れていない内陸国の元を中心とした元軍が長い船旅の中で疫病なども蔓延し厭戦気分が高揚していたうえ、6ヶ月以上洋上に留まったことで[[台風]]を受け、自滅していったというのが真相であるともいわれる。しかしこの台風により元軍の敗因を築いたことが、[[神風]]として後世に伝わった。
{{See also|元寇}}

こうして外敵の来襲を経た日本はより内向的な政治体制をとるも、庶民のレベルでは活発に交易しでは、博多は国際港として発達、その一方で[[倭寇#前期倭寇|前期倭寇]]といわれる日本人中心の海賊による中国朝鮮半島沿岸への略奪行為も活発化していった。その後、[[後醍醐天皇]]が倒幕の志を燃やし、再び朝廷中心の政治を取り戻そうとして挙兵、一度の挫折を経て、元寇の恩賞を出さなかった鎌倉幕府への不信感を募った御家人を糾合してこれを討つもしたが、後醍醐天皇の[[建武の新政]]も公家優遇の政治であり、再び武士の失望を買った。

そこで源氏の名門[[足利氏]]の棟梁、[[足利尊氏]]が天皇に反旗を翻し新たな天皇を立てて([[北朝 (日本)|北朝]])、大和国の吉野に逃れた([[南朝 (日本)|南朝]])政権と対峙し、尊氏自身は[[室町幕府]]を開いて南北朝時代に突入していった。南北両朝が合体を迎えるのは室町幕府三代将軍[[足利義満]]の時代であった。国内の兵乱を終決させた



足利義満は[[明]]に使者を送り、[[日明貿易]]をはじめる。しかし、当時は倭寇による中国朝鮮への略奪行為が激しく、明の初代皇帝 朱元璋が直に日本征伐をしてでも倭寇を取り締まる意向を示すなど、日本と中国・朝鮮の貿易には倭寇らの海賊と善良な使節・証人の差別化を図ることが不可欠であった。そこで日明、日朝間では倭寇ではないという証明として勘合符を用いた貿易(勘合貿易)が行われるようになった。これを勘合貿易という。しかし、一方では明、朝鮮から日本に対して自国を略奪する倭寇を取り締まるよう外交上の要請がなされたが、乱世である日本ではこれ乱世である日本では、明・朝鮮を略奪する倭寇を十分に取り締まることはなくができず、1419年には朝鮮水軍が対馬を襲う[[応永の外寇]]という事態にも発展している。

とはいえ、室町時代における日明貿易、日朝貿易は室町幕府をはじめとして積極的に行われていた。しかし、[[応仁の乱]]を契機として幕府の勢威が衰えると、日明貿易や日朝貿易の主流は有力守護で[[足利氏]]一門でもある[[細川氏]]と、西国の名門、[[大内氏]]が競うように日明貿易に勤しんだ。[[1523年]](嘉靖2年)、細川氏と大内氏はついに貿易の主導権をめぐり対立を起こし、ついには[[寧波の乱]]に発展。大内氏が細川氏に攻めかけ、多くの使節を殺害した。これに関わった日本人は多くは処刑されたが、結果として日明貿易は大内氏に独占されることとなった。しかし、[[陶晴賢]]が[[大内義隆]]に謀叛してこれを討つと、大内氏の被官であった[[毛利元就]]が陶を討ち、やがて大内氏をも滅ぼして大内氏旧領を支配下に納め、貿易[[毛利氏]]によって独占されることとなる。
{{See also|日明貿易}}

=== 海を通ってきた南蛮人 ===
一方、戦国時代には[[薩摩国]]の[[種子島]]に鉄砲が伝来し、[[フランシスコ・ザビエル]]ら[[イエズス会]][[宣教師]]が来日してにキリスト教を伝えた。これによって日本に伝来した鉄砲は種子島と呼ばれることとなり、宣教師たちの活動によって庶民から[[大友義鎮|大友宗麟]]のような大名まで広く信徒を獲得した。

その頃、室町幕府は衰退の一途をたどり、管領細川氏の家臣である[[三好氏]]が中央政界を牛耳っており、時の将軍[[足利義輝]]を暗殺し、義輝の従兄弟[[足利義栄]]を擁立した。[[今川義元]]を討ち、勢威を高めていた[[織田信長]]は京都の政争から逃れ大名の下を転々としていた[[足利義昭]]を新将軍として擁立して上洛、天下人への道をたどると、こうした世界との交易に希望を馳せ、積極的に[[南蛮貿易]]や文化交流を行い、鉄砲の導入によっていくつもの戦いを勝ち抜いていった。

(contracted; show full)[[Category:国際関係]]
[[Category:政治学]]
[[Category:地政学]]
[[Category:海洋国家|にほん]]
[[Category:日本]]
[[Category:日本の軍事]]
[[Category:日本の軍事史]]
[[Category:日本の貿易立国論者|*]]