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{{百科事典的でない|type=NOTSOAPBOX|date=2011年2月}}
'''海洋国家としての日本'''(かいようこっかとしてのにほん)は、総論「[[海洋国家]]」を前提とした海洋国家としての[[日本]]についての各論である。

== 海洋国家としての日本の歴史 ==

=== 日本の成立と海洋文化 ===
古来、[[山幸彦]]と[[海幸彦]]の神話や[[浦島太郎]]などの海を通じた説話が多くあり、海や山を中心として文化が醸成されてきた。[[天照大神]]などに代表される日本神話の神々もまた[[海洋民族]]としての文化的発展とのつながりを指摘する声も少なくない。日本は海洋国家であることにより文化的には比較的孤立した地域にあったが、一方で独自の経済交流と文化醸成により日本文化を築いてきた。

[[三内丸山遺跡]]などの最近の発掘結果から、縄文期から日本海及び東シナ海の沿岸航路による海洋民族の存在が推測されている。発掘品からは、沿岸部の海洋民と内陸の狩猟民との間で交易があったことがうかがわれる。紀元前数百年頃から、沿岸航路から、弥生民族の日本列島への流入が始まる。彼らにより本格的な稲作農耕が始まり、弥生期の初期の原始国家群が成立していく。

時代が下がると、大陸の王朝との国家間の交流が始まる。そのうちの記録に残っているものとしては、[[卑弥呼]]が魏に使者を送り[[親魏倭王]]の[[称号]]を得、その後継者[[台与]]も親晋倭王の[[称号]]を受けた。[[倭の五王]]もまたそれぞれ中国大陸に使者を送った。これらの交流は、辺境の小国家が自らの権威づけとして行ったものである。

古代の



[[ヤマト王権|大和朝廷]]は[[白村江の戦い]]の後、[[唐]]や[[新羅]]からの侵攻に備え九州に[[水城]]を築城し、関東からの募兵を[[防人]]として九州に派遣したりもしたが、結局日本への侵攻はなく、日本と海洋の関わりは再び外交と通商において大きな役割を果たした。朝廷は次第に中国文明からの自立を図り[[国号]]を日本とし、大王の[[称号]]を[[天皇]]と改めていくようになる。[[遣唐使]]の派遣や新羅や[[渤海国]]との通交をするなど、一時日本の朝廷は外交においてなど、活発国際交流を行った。

しかし、日本と朝鮮半島の関係においては新羅と外交上しばしば対立し、その後継王朝である[[高麗]]との関係も国王の病を治す名医の派遣を要請されるが、礼に適わないと一蹴し事実上の断絶関係となり、交易以外のつながりはなくなった。



また、朝廷も朝臣の私貿易の禁止をしたこともあって、日本の国としての貿易はそれほど盛んではなくなった。その間に[[国風文化]]も発達し日本独自の文化が形成されたという時代もあり、日本の国際関係は積極的な時代にあっては異国文化を積極的に取り入れ自分のものとしていくが、そうでない時代にあってはより自国文化そのものが醸成されるなど、日本の社交性と内向性は日本文化の発展において、大いに影響を与えたといえよう。

[[平安時代]]中期にあっては[[刀伊の入寇]]という外敵の来襲や[[藤原純友]]による[[承平天慶の乱]]などが起り、平安中期における海域をめぐる安寧はしばしば脅かされた。その後平安時代末期からは武士の台頭により、東の棟梁[[源氏]]と西の棟梁[[平氏]]がそれぞれ武勇をめぐって競ってきたが、とりわけ平氏は西海にあって[[水軍]]を中心に栄え、海域の秩序の維持に努め、各国の在地勢力との間に封建的主従関係を築いていった。とりわけた。畿内以西の平家の勢力圏にあってはそれぞれ在地勢力による水軍が発達していった<ref>海上知明「平知盛と「海軍」戦略---軍記物語にみいだされる戦略原則」(戦略研究学会、年報戦略研究5、2007年)。</ref>。

やがて、皇位争いと関白の座をめぐって[[皇室]]・[[摂関家]]の間で内紛が起ると、源氏も平氏もこれに介入し、次第に源平両勢力による抗争として発展していった。源氏との闘争に勝利した平家の棟梁[[平清盛]]が[[神戸港|大輪田泊]](現在の神戸)を中心に[[日宋貿易]]を盛んに行い、再び国際交流の道が開けてきた。しかし、陸地勢力を中心に発展した源氏が平家を滅ぼして樹立した政権である[[鎌倉幕府]]にあっては外国の通交は積極的ではなく、再び日本は内向的な時代を迎える。

=== モンゴル世界帝国の来寇 ===
[[元 (王朝)|元]]の[[大ハーン]]([[皇帝]])[[クビライ]]の通交の求めを受けた時の[[執権]][[北条時宗]]は侵略か服属を求めるの意思ありと見てこれを一蹴、これに怒った元が宋や高麗の軍勢をも率いて[[1274年]](文永11年)、九州に来襲、対馬、壱岐を制圧して九州に上陸してきたが辛くも元軍を退かせることが出来た。[[1281年]](弘安4年)、再び元軍が九州に来襲し、石垣を築いて防戦態勢を整えていた鎌倉幕府の御家人たちはこれを撃退、これにより日本に2度も来襲した[[元寇]]という国難を乗り切ることができた。

{{See also|元寇}}

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[[Category:海洋国家|にほん]]
[[Category:日本]]
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[[Category:日本の軍事史]]
[[Category:日本の貿易立国論者|*]]